NPO法人PEACE ON相澤(高瀬)香緒里による日誌的記録(~2007年まで)


by peaceonkaori
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遺体安置所でのある1日

来日講演を果たしぶじにイラクへ帰ったイサム・ラシードから半月ぐらい前に受けとったメールを、遅蒔きながら紹介しようと思う。

たった40日ほど離れていただけでもすっかり変わってしまっていたと、イサムは嘆いていた。バグダードはどんどん悪くなるいっぽうで、晩9時から朝6時までは外出禁止令、そこいらじゅうに検問所があり、ほとんどの検問所では民兵が人びとを連行し殺すのだという。検問所では、IDカードを見せ、スンニ派ならば拘束され殺される。今じゃ、殺人はいたるところでおこなわれていて、毎日のように通りに遺体が転がっているのを見かけるそうだ。
かれは、3日間インターネットカフェを探してやっと見つけたのだけど、警備もなければコンピューターを使うための発電機用の石油もない(電気は、1日に1から2時間ぐらいしか届かないから)というありさま。

以下は、すこし前のバグダード中央遺体安置所のもようを報告してくれたものだけれど、このメールをくれる1日前にその所長Adel Al Mosawiさんがおっしゃるには、この6か月で8000人もの遺体を引き取ったそうだ。毎日どれほどのイラク人が殺されていることだろう、想像するだけで心臓が痛くなる。さらに悪いことに、今では遺体安置所へも行けないらしい。というのも、近くで民兵が待っていて、ご家族やお友達の遺体を引き取ろうとする人びとは、みんな殺されるのだという。

「僕らジャーナリストが、どうやって仕事をつづけていけばいいのか分からない。恐ろしい仕事になったし、どのように世界じゅうの友人にこの状況をつたえられるのかが分からない。だけど、僕は方法を見つけるよ。君ら友達みんなに約束する、僕はピースのために僕の命を懸けてさえも、この仕事をつづけてみせる」とかれは云う。このような状況下でかれは、わたし達につたえようとしてくれている。だからわたしも、拙いながら訳してみた。長文ですが、どうぞお読みください、知ってください。そしてまだのかたはぜひ、2つ前の記事で紹介したイラクホープネットワークのホームページから、「アメリカにイラクにおける暴力を止めることを求める緊急嘆願書」へ署名をお願いします。

バグダード中心付近のAl-Mu'athamにあるバグダード中央遺体安置所には、3部屋の冷凍室がある。
2003年の攻撃前には、世界中どこにでもある遺体安置所でしかなく、たった2人の医師と2人の助手で数体ほどの解剖をおこなっていた。
占領後の今、特にジャファリ首相やジバリ内相の政権時には、この遺体安置所は有名になった。というのも、特に2月22日のサマッラ攻撃後は、民兵や死の軍団や警察や占領軍によって殺されたバグダードじゅうのイラク市民達が、通常ここに運ばれるからだ。
これら遺体のほとんどは、むち打ちや電気や酸(HNO3)やドリル(たくさんの穴を身体にあける)やそのほかよく分からない恐ろしい方法で、拷問を受けている。
最近では、誰かイラク人が警察に拘束されるということは、数日後にわたし達がバグダードのどこかの通りでその遺体を見つけるということだろう(あるイラク人がわたしに言ったように-かれは自分の名を出すことを拒んだが)。
これらの殺戮のせいで、この遺体安置所はもういっぱいいっぱいだ。
そしてこの話をたしかめるべく、わたし達はそれらの現況を見るためにバグダード中央遺体安置所を訪れた。
遺体安置所の近くまでたどり着くと、わたしは30メートル先から死の臭いをかいだ。わたしは悲しかった。なぜなら、多くのイラク市民がそこにいて、悲しがったり何人かは泣いていたから。かれらは遺体安置所の近くで、何かを待っていた。わたしは、そのうちの1人に、遺体安置所の近くのここでなにを待つのかを尋ねた。かれ(Ahmed)は言った。

「みんな、幾日か前に行方不明になった自分達の息子やお父さんやお母さんやお友達を探しに、ここに来ているんだ。なぜって、かれら警察の制服を着た民兵に拘束されたからさ。今のイラクじゃ、誰もが警察の制服を着た民兵に拘束されて、その家族は遺体安置所に探しにくるんだ。」

かれらは不明者を見つけられるのでしょうか?

「不明者のうち幾人かは遺体安置所で見つかり、それ以外はまだ見つからない。そして、かれらは別の遺体を待つ。というのも、イラク警察は遺体安置所に毎日何度も遺体を運んでくるのさ。」

わたしがAhmedと話していたら、2台のパトカーがやって来てたくさんの遺体を運んでいた。そこで待っていた人びとはみな、パトカーまで走り始めて、遺体から息子どもを探し出した(それはとても悲しい光景で、イラク人にとって、戦争よりもつらい時間だった)。この混沌としたなかで、1人が叫び出した、「わしの息子だ」。拷問のうえ殺されていた。「わしは息子を永遠に亡くした」とかれは言った。このおとこは、そこにいたみんなを泣かせ消えたかたを思い出させ、それぞれ追悼の意をかれに述べた。わたしでさえ、悲しみのしずくを隠すことはできなかった。かれの息子の片目はくり抜かれていて、身体にはたくさんの穴があった。穴はボルトによるものだったり、ドリルによるものだったり。かれらは話した後、その遺体を遺体安置所に運び入れた。わたしはそのお父さんに、名はAliさんだと聞いた。いくつかの質問も。

誰があなたの息子さんを殺したのでしょうか?

「わたしには分からない。わたしの息子は小売店主で、お店はal Rasheed通りにあった。そして3日前に警察に拘束されて、わたしは今、殺された息子を見つけたんだ。」

なぜ、奴らは息子さんを殺したのでしょうか?

「息子はスンニ派だったからさ。警察と民兵はおんなじで(かれが言うには)、奴らは訳もなくバグダードじゅうのスンニ派を殺すんだ。」

息子さんは、警察から指名手配されていたのですか?

「いや。わたしの息子は、友達みんなからもとても愛されていて、みんながかれをすきなんだよ。純粋で、悪いことなんて何もしないこだった。」

それからAliさんは泣き始め、「悲し過ぎるからこれ以上なにも質問しないでくれ」と頼んだのだった。
このインタヴューを通して、息子を亡くしたイラク人を知ることができる。
この後わたしは、遺体安置所で働くひとにインタヴューを試みるべく、なかに入ろうとしたが、なかでなにが起こっているのかをレポートする許可をどのジャーナリストにも与えないといって、入らせてもらえなかった。遺体安置所で働いている1人のAdelという名のエジプト人が、「できるだけ早く去りなさい。なぜなら(かれ曰く)この遺体安置所のFaik Bakrという名の前の責任者が死の脅迫を受けたし、ここ数か月で7000人以上のイラク人が多く後ろ手に縛られて死の軍団に殺されているからだ」と。
わたしは遺体安置所を去り、遺体安置所のなかで何が起こっているのかを知る人を探し出した。かれはその遺体安置所付近の駐車場のガードマンで、名をRamadanという。見たところ、年は40から43歳(正確には知らない)だ。わたしはかれに訊いた。

かれらは毎日どれぐらいの遺体を運んでくるのですか?

「前に、バグダード北方60キロのAl-Tajiから1日に100人以上の遺体を運んで来ていた。20体ほどしか運んでこない日もあった。平均して毎日50から60体ぐらい、95パーセントが民兵や死の軍団によって殺された人達だよ(かれが言うには)。
僕はここにいて悲しい(とかれは言った)、なぜってみんなここへ来て悲しくなってさ。いつか別の仕事を見つけてこの場所を離れたいよ。」

前に遺体安置所に入ったことは?

「うん、何度もあるよ。遺体をなかに運び入れるのを助けるためにね。」

そんな数の遺体を保つために、室温はじゅうぶんに冷やされていましたか?

「いや、そんなにじゅうぶんには冷やされてはなかったな。重なり合うようにして遺体が置かれていたり、遺体安置所のなかのそこいらじゅうの床に置いてあったりした。」


遺体はスンニ派? それともシーア派?

「どちらも。だって今、イラクは宗派戦争だもの(かれが言うには)。」

どちらからもって、どうやって知りました?

「遺体を引き取りにきた遺族を見たからね。」

これが最後のインタビューだった。わたし達はそこでたくさんの悲しい話を見出すことができたはずだけれども、わたしはできなかった。なぜなら、わたしは人間であり、わたしの国とかれらが冷血で訳もなく殺されていったことをひじょうに悲しく想うからだ。

最後に、遺体安置所で働くKais Hassan医師の発表をまとめようと思う。かれは衛星放送で述べていた。

「バグダード中央遺体安置所が収容したのは次の通り。2006年1月に1068体、2月に1110体、3月に1294体、4月に1115体。
2003年の攻撃前、わたし達は平均して毎日7から10人の遺体を引き取っていた。」

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by peaceonkaori | 2006-07-17 18:10