NPO法人PEACE ON相澤(高瀬)香緒里による日誌的記録(~2007年まで)


by peaceonkaori
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

カテゴリ:未分類( 24 )

イラクで出産する

イラク北部モースルにいるアハメッドくんに、待ちに待った息子が生まれた。アルハムドゥリッラー(神のおかげで)!
ただ、出産でさえイラク人にとっては厳しい状況のようで、報告メールは手放しではよろこんでいなかった。

おくさんは出産のために2日前から入院した。ふつうなら7時間ばかしかかるのだけど、まともなお医者さんがいなかったため、主治医はこう話したんだ。マジだよ、かのじょは2週間以上も待たなけりゃいけないだと。
かのじょは主治医を信用して病院へ行き、主治医は子どもが生まれる注射をほどこした。3本もの注射が必要だったんだけど、その病院にはなかったし、病院の外にも売っていない。だからかのじょは痛みに襲われ、20時間もノンストップで泣きつづけたのさ。そのうえ病室はひどく汚く、暑く、そして狭かった。
そしていよいよ出産。赤ちゃんが出てこられるように、ちょっとした手術をおこなった。で、信じてくれよ。出産後1時間で、かのじょは退院させられたんだ! なんでかって? 妊婦のベッドが足りないからなんだ。
そんなこんなで息子を授かった。ユースフと名づけたよ。ユースフは3日前から病気にかかってしまった。だけど外出禁止令のせいで、医者も病院も見あたらない。


生まれたばかりのちいさくてか弱いユースフの容態が気になる。
治安や停電の問題も深刻だがさらに、ニネベ内で起きた死者450名ともいわれる大爆発事件の影響が、モースルにも及んでいるらしい。
子どもは希望だね、とずっと誕生を待ち望んでいたのだけど、生まれたとたんにこうも受難がつづくとは。ユースフの、すこやかな将来を祈る。
[PR]
by peaceonkaori | 2007-09-02 22:50

バグダードの主婦は今

バグダードのある主婦のインタヴューを。もうすこし、聞き取りしたいなと思っている。

わたしの住む町はゴミで溢れています。でも誰も、ゴミを収集できません。政府もやらないし、みんなもやりません。なぜって、町の戦士らが「もし誰かがゴミを片づければ、そいつを殺す」と言うのです。かれら戦士は、遺体や爆弾をゴミの影に隠しているからです。
ある時、米兵が大型車でゴミを移動させようとしました。ゴミのなかに埋もれている遺体で、町はどんどん狭く悪くなっていたし、主要道路のほとんどはそういったゴミで埋まっている状態だったからです。米軍の運転手がゴミを収集しに来たその時、戦士が狙撃しました。頭をやられて、即死しました。
そう、今では町はゴミで溢れかえり、腸チフスの病気が蔓延しています。

朝6時半にわたしは家庭ゴミを通りのはずれのゴミ置き場に投げます。
ある時わたしは、そこで遺体を見つけたのです。33歳ぐらいの男性でした。首を斬られ、胴体の上に乗せられていました。

ある夜のことでした。
民兵が町にやって来たのです。そして、3軒の家に入って1人残らず殺害しました。人びとは叫び出したわけです。すぐに町の戦士が駆けつけて、民兵が退散するまで戦ってくれました。

16歳の少女がいました。かのじょはある時、米兵と写真を撮ったのです。そしたら町の戦士はかのじょを捕まえて、23箇所も撃ち、遺体を路上に投げ棄てました。遺族は、戦士に殺されるのを恐れて誰もその遺体を運べなかったと嘆きます。

小学校は弾痕だらけです。銃撃、戦闘が始まると下校しようとするのですが、できない時もあって、そういう場合は何時間でも鎮まるまで校内に隠れています。
いつも戦闘があって、授業ができない状態です。子ども達を早めに下校させるので、課程が終わりません。

近所のおとこの子が民兵に捕らえられて殺されました。民兵どもは棒やねじを使ってがんじがらめにしてしまったため、遺体がとり出せなくなりました。遺族は、その遺体をそのままお墓に持って行くしかありませんでした。米軍の検問所で車を停めました。爆弾があるかどうか、米兵がチェックするのです。米兵は棺を開けました。米兵らはそのねじだらけの遺体を見るなり、叫んだのです。「ノー、イスラーム教徒がこんなことをするっていうのか!」

もっともっと色んな話があります。だけどきりがないから、すこしだけお話しました。

[PR]
by peaceonkaori | 2007-08-21 23:42

メールを交わしつづける

メールで届けられたその写真を見たとたん、感涙がわたしを襲った。
なんてことはない1枚の家族写真だった。お家の居間のようなスペースで、家族がそろっている。真ん中に大きなケーキが置かれてい、両親や兄弟姉妹、臨月をむかえた義妹がいっせいにカメラのほうを見つめて咲みを浮かべている。とくに趣向を凝らしたものでもない、ふつうの集合写真だった。
それは、イラクの友が送ってきたものだった。じゅうたんのうえに皆が座り、敷物に食べ物が並べられている。缶ジュースはイラーキーのすきな炭酸飲料ばかりだし、壁にはイスラーム教のカレンダーと思われるもの、おんな達はよく見かける寝巻きのような部屋着のようなものを身にまとっていた。皆がぶじ、だんらんできている-それだけで、わたしはうれしかったのだ。
この家族のバグダードでの生活ぶりを、わたしは幾度となく聞いていた。武装グループ(米軍も民兵も)に狙われるお父さん、ご近所さんが次つぎに殺されるのに怯えるお母さん、お友達が撃たれるのを目撃した兄弟姉妹、脅迫状をつきつけられたそのひと。これでは休まる時がないじゃないか、と思えてしまう話がつづいている。冗談を云いあったりできるよゆうはあるんだろうかと、わたしは日常会話を空想してみる、だけどうまくできなかった。話だけ伝え聞いていたそのひとらの、顔をひさしぶりに見ることができた。写真に向かって声をかけ、いつか会える日を夢想した。

数日前にはサマーワ出身の友がイラク国外から連絡をくれた。
サマーワといえば、そう、陸上自衛隊が行っていたことで日本では有名になった町、日本政府が「非戦闘地域」と呼んでいた町だ。
そのサマーワでも活動する武装グループがかれに死の脅迫状を送りつけたので、かれはイラクを脱出したんであった。そして今度は、今のイラク政府からも命を狙われているのだという。なんでも、かれを捕らえてイラクに送還するよう今のイラク政府が各国に通達を出しているのだとか。
祖国を追われてなお恐怖に取り巻かれる、逃れられない不安。だのに、「こんな話をしてしまってごめん。素敵な日々を過ごしてね」とやさしく振る舞ってくれるかれの寛容さ。

べつのバグダードの友からもメールを受信する。
お義父さんがとうとう拷問死したという報せに嘆くわたしに、かれは「かおりチャン、僕は直接にたくさんの親戚や周囲のひとを亡くしている。遅かれ早かれ僕だって殺されるんだろうけど。我われは死を恐れない。亡くなったひとは安らぎや心地好さを、生きている僕ら以上に得られているんじゃないかってね。ともかく僕は君に書きつづけるよ、人生の最期の時が来るまで…」と返事してきた。
わたしはどう返信すればよいのか分からない。安全圏にいてなにを云ったところで、とても虚しく響いてしまう。だけど、返さないわけにはいかない。イラクを忘れていないと訴えつづけることが、わたしにできることだと思うから。かれの苦しみには遥かおよばなくても、ほんのわずかでも痛みを共有できたらなと思っている。
[PR]
by peaceonkaori | 2007-08-19 12:58
バグダードに住むまだ10代の少女2人の、その日々をすこし。子ども達の生活のすみずみにまで、戦争がはびこっている。
かのじょ達とはまだ直に会ったことはないのだけれど(この話はイラクの友達づてに聞いてもらった)、いつか乙女トークを交わしたいなあと願っているわたし。

19歳のおんなの子は云う。

イスラーム教のモスクがアザーン(1日5回の祈りの時を報せるモスクからの呼びかけ)を始めると、警察がそこいらじゅうを撃ち出すの。毎日5回、撃ってくる。なぜって、警察どもは誰もモスクに行ってほしくないからだわ。


16歳のおんなの子も話す。

ある日の休み時間、校庭でのこと。1人の狙撃兵が突然、お友達を撃ってきたのよ。かのじょは13歳ぐらいで、足に怪我を負ってしまった。なんの理由もなしに、ね。わたし達はこぞって泣き出した。学校の責任者がその子を連れに来てわたし達を下校させるまで、ただ泣いた。

別の日、わたし達が下校している時にね。また狙撃兵が、通りにいたおんなのひとを撃った。そのひとは赤ちゃんを連れていただけなのに。その狙撃兵はかのじょをダイレクトに撃ち殺したってわけ。

イスラーム教スンナ派のお友達Aちゃんととシーア派のお友達Bちゃんがいたの。Aちゃんのお父さんもスンナ派ね。Bちゃんは、Aちゃんのお家がお金持ちだってことをシーア派の民兵どもに漏らしてしまった。民兵はAちゃんを誘拐して、Aちゃんの家族に10万ドルも身代金を要求したのよ。家族は10万ドルを支払って、Aちゃんをとり戻した。でも後になって町のスンナ派の戦士が、BちゃんがAちゃんを売ったという事実を知ったらしいの。それでその戦士は、Bちゃんとその両親と5人の兄弟姉妹を皆殺しにしたんだって。


*はじめ京言葉で訳していたのですが、関西弁はお笑いのイメージがあるからこの話にはそぐわないと不評を買ったので、関東の言い回しで書きました。イラーキーって京都とか大阪とか、似合う思うねんけどなあ。
[PR]
by peaceonkaori | 2007-08-04 23:22

偽装する日常

イラクの友からメールが届く。「明日にでもメールを書くよ」と電話があったきり音沙汰がなかったのでしんぱいしていたのだけれど、とにもかくにもホッ。とはいえ、その内容の重さに読んでいてぐったりとしてしまった。
ニュースにならないことが多すぎる。こまめにニュースをチェックして情勢を追っているつもりになっているのではないか、わたしはまだまだ想像力が足らないのではないか、と初歩的な自問をする。
メールはひどく長く、スペルや文法のミスが目立っていた。それほどに、動揺し報せねばと思っていたということだ。また、いとこが惨殺されたと、その人間とは思えないほどに変わり果てた遺体の写真を送ってくるべつの友。全身の鳥肌が立つむごたらしいそれを撮影する時のかれの心情はいかようか。お悔やみの言葉を綴ったわたしからのメールに、「とってもうれしかったよ」と返すかれの気もちは。
ニュースにならないイラク人の「日常」を、すこしだけでも紹介してみようと思う。つたえられることをつたえることが、メールを受けとったわたしの務めと思うから。

かれのお父さんが、とうとうバグダードから避難した。バグダードを離れるわけにはいかない、と言っていたお父さんなのに。お父さんは、「俺には選択の余地がなかった」と話し始めた。狙われているのがはっきりと分かったからだった。お父さんは恐怖に怯え、状況が良くなるまではバグダードへは戻らないと決心する。
お父さんはイスラーム教スンナ派。今バグダードで移動するには、文字どおりの意味で死のリスクが伴う。…シーア派になりすますしかなかった。誇り高く生きてきたお父さんにとって、立場を偽るという選択がどれほどの苦渋だったことかと思うと、まだ会ったことのないわたしでも顔面の筋肉が硬直する。お父さんは髭をみじかく剃り、黒と白のチェック柄のクフィーヤを頭に巻いて、たくさんの大きなわっかを手にはめた。そう、シーア派みたいに。
米軍の作った分離壁によって、地区は囲まれていた。バグダードでは幾つかの地区において、テロリスト流入の阻止という名目でパレスチナを想起させる壁が建設され、封鎖されているのだ。メインの門から出ようとすれば、警察はお父さんを民兵組織に引き渡すに違いない。お父さんは友達に頼んで民兵の偽IDを入手して、あれこれ工作して、やっとこさ脱出できたのだった。

もちろんバグダードでなくても、危険はつづく。かれは、道路に転がった遺体の写真を送ってきた。ディシターシャを着た中肉中背の男性が、うつ伏せに倒れている。その写真についての友の説明は、まるでそんなことよくあることだよという風に、淡々としていた。
バグダードのお家は、軍組織(民兵かレジスタンスか米軍か)に占拠されてしまうのだろうか。仕方ない、とは口にできない。壊された「日常」。
[PR]
by peaceonkaori | 2007-08-01 21:41

3月20日

今朝は5時半に目が覚めた。眠れなくなって起きた。なんでかな? ゆうべ見たTBS「ニュース23」の特集のせいなのかな。

3月20日は、4年前にイラクが侵略軍によって攻撃を開始された日。

番組では、イラクの友のワリード一家の様子がレポートされていた。奥さんが買い物に行ったのを、危ないからと銃をしのばせ迎えに出るワリード。こども達は、ジハードごっこをして遊んでいる。サマーワからバグダード郊外へ引っ越しを余儀なくされる家族。
ひさびさにワリードを見られた喜びは幾らかあるものの、かれの置かれた過酷な状況にうちのめされる。ほんとうは、放映された以上にミゼラブルな日々をかれは過ごしている。
そして、かれはとくべつなのではない。一般の、とくにスンニ派のイラク人はみんな、似たような厳しい現況下に暮らしているのだ。
バグダード入りしていらっしゃる綿井健陽さんが云う。この4年間でイラク人が得たものは、銃声と爆音と殺し合いだけだと、バグダードはまるで大きな牢獄のようだと。

4年前のイラクでは「開戦日」もなにもなく、人びとの営みがあった。4年後の「開戦記念日」だって人びとは営みをつづけているのだが、今日も100人を超えるかたがたが殺されるのだろう。考えたくない予想だけど、たぶん、当たっている。

e0058439_2248671.jpg今日3月21日は、WORLD PEACE NOW主催のイベント。どうせつまらないだろうと参加しないつもりでいたけど、つまらないかどうかは行ってみて考えようと決断し、途中から出向いた。「デモなどはやって当然なんだ、前提なんだ。やったうえでその先どうするのかが問われる」という、ケン・オキーフさんの言葉もあたまに残っていたから、行かないでいるのは後ろめたくもあった。
最近ではパレードと呼ばれるデモ行進のみ、参加した。主催者発表で2000人とされていたけど、きっとそれは多めの数字。いつも東京はそう。皆それぞれにのぼりを持って、お決まりのコースを歩く。何年も同じコースをたどっても変わらないのに、それでもやりかたを変えない。前のほうでは拡声器で替え歌を歌いなにか訴えているけど、しらけたムード。そばの老女に「一緒に歌いませんか」と誘われたが、「賛同できないので」と断った。デモに人数が必要なのは分かっている。でも、こうやってなんとなく集まった人間がただ練り歩くだけで、いったいなにを変えられるというのか。どうせ最後には労働ナントカとかナントカ教組とかの各団体で万歳三唱かなにかして、「おつかれさまでしたー」とかなんとか言ってにこやかに終わるのだろう。今この瞬間にも、イラクではひとが誘拐され拷問され殺されているというのに。
わたしはしだいに腹が立ってきた。こんなデモの一部になってしまっているじぶんが、こころの底から嫌になった。わたしは独りでわめき散らした、「みんなイラクのことを考えろー、イラクのことを考えてデモをしろー」「だらだら歩くなー、しゃきっとしろー」「くだらない歌を歌うなー」「惰性でデモをするなー」「デモのためのデモをするなー」。デモ行進のなかにいて、デモ批判をした。周りのひとは、笑ったり聞こえないふりをしていた。わたしはつづけた。
でもそのうちに、これはじぶん自身にたいする怒りであり苛立ちであるということが分かってきた。わめいたところで世界は変わらない。第一にじぶんが変われないから、わたしは怒っているんだなと。矛先が我に向いて、わたしは沈黙のうちに歩きつづけた。時折、「イラク戦争反対!」「これ以上イラクのひとを殺すなー」などと叫んだ。喉が痛くなるまで、大声で。ここ東京でなくバグダードでデモをしたいとも思った。なんというか、戦場にいないことがもどかしかった。わたしは国民投票法案にも憲法改悪にも反対の立場だが、そのシュプレヒコールには応えず、イラクに関係することだけ口にした。イラク、イラク、イラク。わたしが大のイラクずきということが今のわたしにとって逆にあだになっていることにも、じつは気づいていた。でも今日はイラク戦争を止めるために集まったイベントなのだから、わたしはわたしの思うがままにデモ行進をした。代表は、そんなわたしを黙って見守ってくれていた。
終着地でスピーチをさせていただいた。わたしはイラク情勢をかんたんに説明したうえで、とにかくイラク人の「ノー・ライフ」の日々を想像してくださいと、希望の途絶えた絶望のイラク人のためにわたしら国際社会は本気でほんとうの本気で挑むしかないんですよと、呼びかけた。そのあとで数人のかたに声をかけていただけたのが、今日のせめてもの救いだった。

ヨルダンで幾人もに「Nothing」と云われたことがまだ、わたしを葛藤のただなかに置き去りにする。ヨルダンでイラク人と喋っていても日本でデモ行進をしていてもイラクはあまりに遠くかんじるし、今すぐの解決策なんてそもそも見つかりっこない。答えは出せないが、前進しなくてはならない。声をあげて歩きながら、イラク地図のネックレスがわたしのちいさな胸に躍っていた。

写真提供、渡邉修孝さん。
[PR]
by peaceonkaori | 2007-03-21 22:55

サッダームを想う日々

e0058439_14542024.jpg17日、一水会主催の「フセイン大統領追悼の夕べ-不法なフセイン大統領裁判を考える-」に出席してきた。
一水会というか新右翼のイベント自体が初めてで多少ドギマギしたが、知り合いの軍事ジャーナリストでバグパイパーの加藤健二郎さんがいらっしゃったので隣に座らせていただいた。日本でこのような追悼の会が催されたことがうれしかったし、これは出席せねばと思った。
参加者は20名ほどと小規模ながら、日本とイラク両国の国歌斉唱(もちろん国旗も掲げられている)、黙祷、一人ひとりの献花、弔電披露など、粛々としたムードでおこなわれた。終了後にご挨拶させていただいた代表の木村三浩さん曰く、「まあ、これが右翼のやりかただから…ハハハ」ですって(目上のかたにたいして無礼な表現かもしれないが、木村さんはなんかお茶目なお人柄やわあと思う!)。
在日イラク人はスピーチで、「わたしはシーア派だけれども、フセインを支持する。かれが死んでもわたしのこころのなかで生きている、生きています!」と全身で力説されていた。サッダームの死を機に、PEACE ON図書館にある木村三浩責任編集『鬼畜米英 がんばれサダム・フセイン ふざけんなアメリカ!!』(鹿砦社)をそろそろ読もうとしていたら、その鹿砦社の代表取締役のかたにもお会いできた。バース党の制服を着用したバース党員もいらっしゃった。

すこし前のことになるが、イスラーム教のイードルアドハー(犠牲祭)2日目の大晦日のことなども。

イラク大統領サッダーム・フセインの、絞首刑の映像を確認する。覆面の執行人に縄をかけられても動じない、最期まで大統領然としたその振る舞い。そして、1人の人間として、1人のイスラーム教徒として。
その様子はわたしに、日本という国家の人質として殺された香田証生くんの斬首を思い起こさせた。かれもまた、しずかに死を受けとめていたように映った。
祈りをさえぎって、刹那、かれの足許から床がなくなりかれの首は吊るされた。頭巾も鎮静剤も拒否した、このひと。その遺体は、このニュースが誤報でないことを、未だ信じたがらないわたしにきちんと説明した。

わたし達はもうすこし考えを進めないといけない。このような方法で5日前の降誕祭の日には、日本でも4名もの死刑囚が殺されたのだ。首吊りという残虐な殺害方法で(いえ、残虐でない殺害方法は存在するのか?)。この恥ずべき後進国、わたしは抗議のファクスを法務大臣長勢甚遠さんに送信した。

夜は、ジャーナリストでイスラーム教徒の常岡浩介さんのお宅で羊肉をごちそうになった。イードは、周りのひとや貧しいひとに羊を分け合うもので、貧民のわたしにもお声がかかったというわけ。有難い。塩茹でされた羊のお肉はチェチェン風(?)。ごちそうさまでした。
そういえばPEACE ONは、2年前にはファッルージャから避難してきたバグダード郊外のキャンプの人びとに羊を3頭、贈ったんであった。はじめ日本からの支援だと告げると、外国からの支援など受けとらないと断られ、これは政府からでなく一般市民の寄付のみによって届けられたものなんだとさんざん説明して、やっと届けることができたという。日本という理由で支援を拒否されたショックが大きかったので、今でも鮮明に記憶している。

そんなこんなで、年が明けても「おめでとう」なんてとても云えたもんじゃない。

悪趣味なことには、イラクの首相府では前日の29日、サッダームの死を祝う夕食会がおこなわれたそうだ。書面による執行許可も、イラクの司法当局ではなくシーア派側から出されたものだったという。そしてよく知られているとおり、大統領タラバニではなく首相マリキがサインした。とにかくマリキは急いでいた。イード(犠牲祭)のあいだは死刑はしないというサッダーム政権下での慣習も、ここでは無視された。

サッダームの裁判はもともとが茶番なのだが、いちおうドジャイル市での虐殺を理由に死刑になったとされている。政府の転覆と大統領の暗殺を共謀したとして、ドジャイルの住民148人を処刑した、ということだ。それ以外のもの(クルド人の殺害など)の口封じのために、ドジャイルのことだけで首を吊るされたともいわれている。
ところがかれの死後、ドジャイル住民の代表団がサッダームの弔問施設を訪問したという報道があった。それによると、裁判で供述したいと望んだドジャイルの住民らを傀儡政府は拒み、誰1人として出廷できなかったという。またサッダームが処刑したのは、ドジャイル住民ではなく全員がダーワ党かイラン諜報機関のメンバーだったとも。
このニュースの信憑性は分からないけれども、またもわたしはグッタリと疲れ果てた。裁判そのものが茶番、裁判の内容まで茶番ときたもんだ。忘れてはならないのは、サッダームの裁判どころか2003年からのイラク侵略と占領のすべてが間違っていたということ。

またアルジャジーラ・ネットのアンケートでは、じつに9割もの人びとがイードルアドハー(犠牲祭)初日の死刑執行を侮辱とかんじ、サッダーム死刑執行には支持できない、という結果が出ている。日本やほかの地域で流されるニュースの印象とは、正反対だ。

わたしが聞いた限りではイラクの友も皆、サッダームの死を嘆いている。
バグダードがあまりに危険なためシリアで仕事を探そうとしている友は、「実際サッダームの処刑については、僕らは誰もが予想していたよ。だけど時が激マズだったね。だって、イスラーム教徒にとってイードの初日だったんだから。そう、奴らはイスラーム教徒の気もちなんてかんがみないんだよ。とにもかくにも、僕らは占領からは良い出来事はなにも期待しない」と、いつものあきらめムードで云う。
また、脅迫状を受けフランスに一時避難中の友は、「サッダーム・フセインの出来事(私刑)で、僕らのハートは潰された。でも僕は思う、かれに起こった悪いことは、敵である傀儡政府の奴らがどうかんじようと奴らの対価なんだ。なぜって、今やサッダームはひじょうに多くの人びとのこころのなかで本物のビッグ・ヒーローになったのだし、イードの初日に亡くなったから多くはシャヒード(いわゆる殉教者)と考えるからさ。いずれにせよ奴らはサッダームを殺したかったのだが、かれが勝ち奴らが負けた、と僕は思う。サッダームが殺されてから世界が行為(抗議)したことが、それを証明しているね」と高らかに述べていた。

サッダームにはもちろん、良い面もあれば悪い面もあった。悪い面ばかりが目立ったが、良い面の故にそれを恐れた輩がかれを死に至らせたともいえる。イラクは今後ますます戦いの炎に油が注がれることと、わたしは考えている。
あるイラクの友は云った、「世界中がサッダームのために悲しんでいる。僕は訊きたい、サッダームが真の独裁者であり危険であったならば、なぜ世界中が悲しむんだい、と」。
[PR]
by peaceonkaori | 2007-01-26 14:52

サッちゃん

e0058439_2595330.jpg前夜、一睡もできなかった。かのニュースの行方も気にはなっていたのだけれど、これは例のストレスからくるものだと思った。寝つきをよくするお薬はいつものように飲んでいたけど、もっとつよいものを服用すればよかった。朝の6時にはあきらめて起きあがり、あたたかいお茶を淹れてもらった。

イラク大統領が亡くなった。サッダーム・フセインは、首を絞めて殺された。
「わたしのいないイラクなど無意味だ」と最期に述べたという。犠牲祭初日の早朝の、あまりに凛然とした…。

わたしは神に祈ったはずだ。あなたのお導きで、かの国をこれ以上の混乱に陥れないでくださいと。
その翌日、仕事のミーティングの合い間にふと見たインターネットのニュースで、つい1時間ばかし前にかのひとは殉教したと知った。わたしはどうしたらいいのか分からなくなって、とにかく号泣が終わらなかった。肩に、そっと手がおかれた。悲しみを分かちあう手であった。しばらくニュースを追った。だけど、あたまははたらいていなかった。
わたしは再度、祈祷した。今度は怒りの祈り。なんてことをなさったのですかと、あなたはわたしの祈りを聞きいれてはくださらなかったのですねと。1人の人間の死によって、今後より多くの死が待ちかまえているように思える。イエスの十字架を想起した。
ゆうべの眠れなさは、なにか予感してのことだったのだろうか。それは考え過ぎであろうか。とにかくわたしは眼前の仕事をやるしかないのだと、つよく思った。でも、かのひとのいないかの国にどういった希望を抱くわたしがいるのか、愚問があたまを支配した。

脅迫状を受けエジプトに避難しているかの国の友と、チャットする。イスラーム教徒にとってとってもハッピーなはずの犠牲祭の初日に、イスラーム教徒はみんな悲しんでいる、と。我われを翻弄させた傀儡政府のメンバーを残らず憎んでやる、とかれは怒りをあらわにしていた。そしてかれは、サッダームのために祈りに行った。

恥ずかしながらじつは、あっと驚く映画のような出来事だって想像していた。最近はバース党の動きが気になるところだし、いっそ脱獄でもできやしないか、なんて。そのほうが侵略国にとっても好都合だとも考えられた。それを理由に、傀儡政府の首相を更迭できるうえに治安安定化のために兵士増派だってできるのだ。脱獄の劇をイメージしてはわくわくしているわたしが、あった。でも、そんなミラクルは起こらなかった。かのひとは、あっさりと首に縄をかけられた。

まず、不公平があった。戦争捕虜としてつかまえられたという不可解さ。それを自国の傀儡政権が裁くという不条理さ。
そして、不公正があった。占領国や傀儡政権は、幾度となく裁判に口をはさんだ。弁護士が殺されもした。これが民主主義ってやつなら、わたしは民主主義を信じない。
失笑さえもあった。良し悪しは別として(ええ、別としてですよ)、国家反逆罪でひっとらえる国のリーダーなんて、ほかにも多くいるじゃないか。それを罪とするとして、傀儡政権はその罪を徹底的に暴くより口を閉じさせる方法を選んだわけだ。
なによりも、わたしは死刑に反対する。断固反対する。死刑は国家権力による殺人である。かのひとが死刑執行人に「おまえ達はテロリストだ」とつぶやいたとされる噂が事実なら、それはそのとおりだ。

サッダーム。
わたしはかれを、サッちゃんと呼んでいた。「ボロ・ビデム・ニブディークヤ・サッダーム」の叫びを冗談まじりに唱えては、よく怒られたりしていたものだ。この歌は、もう歌えない。サッちゃんは旅立ったのだから。

サッダーム。
わたしをサダミストと揶揄するひとがいるなら、それはそれでかまわない。今よりもサッちゃん時代のほうがまだましだったというかの国の民衆の声を、わたしはたくさん聞いてきた。かれは大犯罪者。そう、いったいどれだけの国民がかれによって痛い目に遭っただろうか。だけれども、ただの大犯罪者だったのか? 国連が認めた経済制裁で150万人ものかの国の人びとを死においやっておいて、国際社会はなにをぬかす。かれは魂を裏切らなかった、ちょっとできの悪い大将だったのだ。

今晩はつよいお薬を飲んで、もう寝ることにしよう。サッちゃんと一度、お喋りしたかった。でももう叶わない。サッちゃんは、永久に葬り去られたのだから。

*画像は、ハビビによるイラスト。
[PR]
by peaceonkaori | 2006-12-31 03:01

アラブの風

23日の明治大学でのイベントをもって今年の代表相澤の講演予定もすべて終了し、表向きの仕事は終わった。当日の内容はともかくとして、わたしにとってとびっきりのすっごいことがあったんであった!

e0058439_0481732.jpg会場の外でいつものように、イラクやシリアなどアラブ諸国の民芸雑貨をひろげて物販にいそしんでいたわたし。そこへメインゲストの亡命イラク人アブドゥル・リカービさんらが到着した。かれらは「へえ」といった感じでクフィーヤなんかを見ていたのだけど、さすがにサッダーム札(サッダーム政権下で実際につかわれていた紙幣)を見て苦笑いをしていた。
そこへ1人、若い男性が流暢な日本語で「えー、こんなのまで売っているんですか? わたしたくさん持っていますよ」とおっしゃる。こんな端正なアラビ見たことないーとハッと息を呑むような、品のある顔立ち、立ち振る舞い。でも、アレ、どこかで…と思い、「ハル・アンタ・イラーキー(あなたはイラク人ですか)?」と訊いてみる。「いいえ、エジプトです」ですって。まさか、まさか、まさか、「あのっ、モーメンさんですよね? ファ、ファ、ファンなんです!」と汗染みの感嘆符を放って、必死でつたえてみる。そう、かれは、NHK教育テレビの「アラビア語会話」講師のアルモーメン・アブドーラさんだったのだ。「お若いので分かりませんでした」と云いつつ、アラビア語でご挨拶のやり直し。いつもTVで見てアラビア語を学習していたので、そこんところはタマーム(ばっちし)。イラクのアンミーア(方言)でなく、フスハー(正則アラビア語)でできたよ。それにしても素敵過ぎる、ウットリ。

これは一大事と、さっそく開始直前で控えている相澤のもとへかけ寄り、「モーメンさんや、モーメンさんやで~」とあたふた報告する。最初はぽかんとしていた相澤もしだいに理解し、俄然モチベーションが上がったみたい。やりまっせ、モーメンさん。
物販の係のためイベントの内容をすべて聞けなかったのだけど、相澤のスピーチをその隣でモーメンさんがリカービさんにこそっと訳されている姿を見ただけで、もう大興奮。相澤の言葉をモーメンさんが訳してはるッ、それだけでこのイベントは垂涎モノでした、ほんっと。

終了後には、相澤もわたしもモーメンさんにPEACE ONの活動を紹介するので競争。イラクの現代アートのプロジェクト<LAN TO IRAQ>には、たいへんに興味を示してくださった。
そして、わたしはアラビア語の個人授業。「タッシャラフナー(どうぞよろしく)」というフレーズ1つとっても難しい。日本人はどうしても頭を下げてしまうけれど、たぶん向こうではアッラー(神)にしか頭は下げないからね。それに、男性と女性なんだからもうちょっと離れておこなうとか、男女の握手は軽めにとか(もっと近づいてぎゅっとしたかったのよー、ってミーハー過ぎ?)。ちなみに、ちゅっぱちゅっぱのキスは、男女ではほとんどやらないんだそうだ。ふーん、わたしはハニ・デラ・アリとやっていたけれど。そんなこんなで、わたしの「タッシャラフナー」はほぼ完璧になった。

東京へ越してきて2年とすこし。これでわたしの出逢えた憧れのひとは2人目(ちなみに1人目は、今春のシティボーイズ公演で見た倉本美津留さん)。
わたしはぼわーんと恍惚の瞳で、モーメンさんを見送った。

そして今日は、ご降誕おめでとう、の日。
イヴの昨日は、ご褒美の時として夕刻までお布団で過ごし、それからチョコレートやおりんごとともにシャンメリーで乾杯して、M-1グランプリを観賞。昔からのファンの芸人さんが大勢ご出場で、どぎまぎする。クリスマスのカードなどいただき、有難い。
今日は、イラクの友らにカードを送信したり、脅迫状を受けてエジプトに避難しているイラクの友とチャットを交わしたり、夜にはクリスマス用のチキンやケーキが安売りされていやしないかと商店街に漁りに繰りだすもヨミが外れて、けっきょくペルシャ料理屋さんのzakuroで食べきれないコース。チキンも羊もひよこもいただく。偶然いらっしゃった隣席のシリア大使館のかたと知り合う。前はアラビア語の教室をなさっていたというお友達の女性にも、発音などほめていただき光栄。それにしても、シリアのおこさんがほんまに可愛い。

エジプトといいシリアといい皆、恰好よいなあ。それに比べてイラクはまじもっさい。特におっさん、もっさ過ぎる。これが、イラク支援&交流をしていてつくづくかんじること。アラブの街を歩いていても、分かるもの。
そんなこんなを話しながら相澤とそろそろお店を出ようとすると、さっきまで遊んでいたシリアと日本のこどもが「おじちゃん帰るのー」「おじいちゃん帰るのー」ですって。アハハ、もう代表はお兄さんという年齢ではありませんな。相澤はシリア製のクフィーヤ(絶賛販売中!)を翻しながら、たいへんに口惜しがっていた。代表、サンタおじいちゃんとなって、事務局のわたしになにを贈ってくれるのかしら(←催促)。
[PR]
by peaceonkaori | 2006-12-26 00:49

展覧会オープニング

1日、夜。明日が展覧会の初日なので、YATCHとわたしだけでなく、シルワンハニもなにかしら働いている。
シルワンは、今回のために作ったカタログに半透明の紙に印刷した日本語のC.V.を1冊1冊ていねいに貼りつけている。手づくりの恰好よいカタログがたくさんできあがった。
わたし達は絵画の価格設定を相談していたのだが、ちょっとしたことから途中でわたしが不機嫌になり、いっさい口を出さずほかの仕事をし始めた。この異様なムードに、ハニは微笑みながらわたしのこころをほぐしてゆく。「俺はムジャヒディンだ。カオリのすきなひとを殺すぞ。さあ、カオリはどうする?」「いやや、わたしは殺されてもすきなひとを守る。」「だろ? じゃあ、すきなひととキスをしなさい」なんて。さっすが、ひとの親であるハニ。まいったよ、ごめんネ。

翌2日。雨もやんで、ドギマギのオープニング。シルワンはピシッとスーツにお着替え。画家にとって初日というのはとても重要なものなんだろうと分かる。とはいっても、相変わらず歌ったり冗談をとばしたりのかれらなのだけど。

e0058439_1761932.jpg午後3時からは記者会見。
今回のシルワンの絵の群れは、一貫している。テーマは、"恐怖と逃亡"。牛や馬や古代の神話的な動物をモチーフに、アラビア文字をあしらったりして、動きがあるし、生がある。なんというか、真に洗練されたものどもなのだ。同時代を生きるシルワンとわたしを繋ぐもの、それが芸術でありかれの作品なんであった。

e0058439_1763135.jpgだんだんとお客さんも増えだして、午後5時からはオープニングパーティ。
イラク大使もお見えになって、みんなで展覧会の開催をお祝いした。イラク大使のアル・ジュマイリさんはわたしを見るなり、「いつになったら我が家に来るんだい?」ですって。じつは、数か月前に「ハニさんが寄贈した絵が飾ってあるのも見たいので、公邸へ行ってもよろしいですか?」とメールを出していたのだった。お返事もくれなかったのに、ンもう。でも、ジュマイリさんファンのわたしはニコニコ、大使もニコニコ。お忙しいなかお越しくださって、ほんとうありがとう。大使らは、ラマダン中だからといって飲食物には手をつけられなかった。そうだった、失礼しました。シルワンとハニも、さすがに大使らが帰られるまでは手をつけないでいた。

帰りの地下鉄のホームで、ひとによっかかって眠ろうとしているわたしを見て、シルワンは目をギョロギョロさせて驚いていた。日本人てのは疲れるねんよ、とくに東京ってところはね。
[PR]
by peaceonkaori | 2006-10-18 17:07