NPO法人PEACE ON相澤(高瀬)香緒里による日誌的記録(~2007年まで)


by peaceonkaori
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バグダード周辺への祈り

PEACE ON現地スタッフのサラマッドからのメール(内容は、代表YATCHのブログ記事「故郷イラクへの旅路」「故郷イラクへの旅路2~バグダード恐怖の日々~」をお読みください)に、白昼のバスルームで口唇からよだれを垂らし、鼻から鼻水を、瞳からは大粒の涙を落として、ご近所の迷惑もかえりみず大きな大きな声でわたしは嗚咽が、終わらなかった。
戦争はなにも、人間の命を奪うだけではないのだ。数千年もの文化遺産を奪い、住みなれた家屋を奪い、学校でのひと時を奪い、人びとのモラルを奪い、お隣さんやお友達の信じるこころを奪い、1人の命が注射器1本よりも安価なものにだってなりうるのだ。路上には遺体があたりまえのようにして転がっている。こどもらはそれらをゴールに、サッカー遊びに興じている。50度の灼熱、死の臭いはみなの嗅覚を狂わせたのか。
明日からバグダードへ帰るという。賄賂だけではどうしようもないことが、ある。わたしは言葉を失う、こんなメールを受けとったあとでは。しかし、泣いてばかりではいけないと思う。しかししかし、どうしても仕事が手につかない。真夜中になって、すなおな気もちをメールに託した。同じ組織のスタッフとしてではなくかけがえのない愛すべき兄弟姉妹として、わたしは2通のメールを打った。
送信は間に合わなかったようで、連絡のないまま数日が過ぎていった。

そしてゆうべ、短いメッセージが届いていた。

親愛なるベストフレンズ、兄と妹へ
君の気もちとグレートな言の葉を、ほんとうにありがとう。
僕は独りじゃないってマジに感じたよ。
すまなく思う、けど僕はバグダードへ来た。お祖母ちゃんの家にいるよ。
どうかしんぱいしないで。モスルに戻ったら、ここでの悲しく恐ろしいライフの詳細を話すから。


今はただ、自分にできるだけの仕事をして、友のぶじを祈り待つしかない。

そして今朝は、イラクからの電話に起こされた。それはサラマッドとは別のイラクの友で、わたしは数日前に笑えないジョークに富んだメールを受けとっていたんであった。

やあ、かおりさん。
メッセージをありがとう。僕はまだ外国へ行くヴィザをゲットできないでいる。オーストリア、英国、カナダ、と試したけれど、不運なことにこんな国じゃあかんたんなことではないのさ。誰もイラク人になんてヴィザをくれやしない。たった1つだけ、とてもかんたんにゲットできるヴィザがあるよ。なんだか分かるかい? それは死のヴィザさ。我われの国では、ちょうかんたんに、じゆうにゲットできるね。そんなこんなで、数日で僕はヴィザ取得をあきらめると思う。成功しなかったら、バグダードへ戻って近郊の村に住むつもり。死のヴィザにトライしてね。
ごめん、こんなことを云って。でも僕はイラク国民として感じている。どんな国も僕を受け入れてはくれないと。
たくさんのありがとうを。


郊外の村ではPC接続はできないから、今後は携帯電話でのやりとりになる。コンタクトの手段がある限り、わたしは連絡をとりつづけようと思う。それだけが、わたしがかれにできるたった1つのことだから、祈りのほかには。

祈り-最後にはわたしは祈ることしかできない気さえする。かれやかのじょやかれやそのご家族、そして死んでいったかれの弟のために。
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by peaceonkaori | 2006-08-11 00:13

遺体安置所でのある1日

来日講演を果たしぶじにイラクへ帰ったイサム・ラシードから半月ぐらい前に受けとったメールを、遅蒔きながら紹介しようと思う。

たった40日ほど離れていただけでもすっかり変わってしまっていたと、イサムは嘆いていた。バグダードはどんどん悪くなるいっぽうで、晩9時から朝6時までは外出禁止令、そこいらじゅうに検問所があり、ほとんどの検問所では民兵が人びとを連行し殺すのだという。検問所では、IDカードを見せ、スンニ派ならば拘束され殺される。今じゃ、殺人はいたるところでおこなわれていて、毎日のように通りに遺体が転がっているのを見かけるそうだ。
かれは、3日間インターネットカフェを探してやっと見つけたのだけど、警備もなければコンピューターを使うための発電機用の石油もない(電気は、1日に1から2時間ぐらいしか届かないから)というありさま。

以下は、すこし前のバグダード中央遺体安置所のもようを報告してくれたものだけれど、このメールをくれる1日前にその所長Adel Al Mosawiさんがおっしゃるには、この6か月で8000人もの遺体を引き取ったそうだ。毎日どれほどのイラク人が殺されていることだろう、想像するだけで心臓が痛くなる。さらに悪いことに、今では遺体安置所へも行けないらしい。というのも、近くで民兵が待っていて、ご家族やお友達の遺体を引き取ろうとする人びとは、みんな殺されるのだという。

「僕らジャーナリストが、どうやって仕事をつづけていけばいいのか分からない。恐ろしい仕事になったし、どのように世界じゅうの友人にこの状況をつたえられるのかが分からない。だけど、僕は方法を見つけるよ。君ら友達みんなに約束する、僕はピースのために僕の命を懸けてさえも、この仕事をつづけてみせる」とかれは云う。このような状況下でかれは、わたし達につたえようとしてくれている。だからわたしも、拙いながら訳してみた。長文ですが、どうぞお読みください、知ってください。そしてまだのかたはぜひ、2つ前の記事で紹介したイラクホープネットワークのホームページから、「アメリカにイラクにおける暴力を止めることを求める緊急嘆願書」へ署名をお願いします。

バグダード中心付近のAl-Mu'athamにあるバグダード中央遺体安置所には、3部屋の冷凍室がある。
2003年の攻撃前には、世界中どこにでもある遺体安置所でしかなく、たった2人の医師と2人の助手で数体ほどの解剖をおこなっていた。
占領後の今、特にジャファリ首相やジバリ内相の政権時には、この遺体安置所は有名になった。というのも、特に2月22日のサマッラ攻撃後は、民兵や死の軍団や警察や占領軍によって殺されたバグダードじゅうのイラク市民達が、通常ここに運ばれるからだ。
これら遺体のほとんどは、むち打ちや電気や酸(HNO3)やドリル(たくさんの穴を身体にあける)やそのほかよく分からない恐ろしい方法で、拷問を受けている。
最近では、誰かイラク人が警察に拘束されるということは、数日後にわたし達がバグダードのどこかの通りでその遺体を見つけるということだろう(あるイラク人がわたしに言ったように-かれは自分の名を出すことを拒んだが)。
これらの殺戮のせいで、この遺体安置所はもういっぱいいっぱいだ。
そしてこの話をたしかめるべく、わたし達はそれらの現況を見るためにバグダード中央遺体安置所を訪れた。
遺体安置所の近くまでたどり着くと、わたしは30メートル先から死の臭いをかいだ。わたしは悲しかった。なぜなら、多くのイラク市民がそこにいて、悲しがったり何人かは泣いていたから。かれらは遺体安置所の近くで、何かを待っていた。わたしは、そのうちの1人に、遺体安置所の近くのここでなにを待つのかを尋ねた。かれ(Ahmed)は言った。

「みんな、幾日か前に行方不明になった自分達の息子やお父さんやお母さんやお友達を探しに、ここに来ているんだ。なぜって、かれら警察の制服を着た民兵に拘束されたからさ。今のイラクじゃ、誰もが警察の制服を着た民兵に拘束されて、その家族は遺体安置所に探しにくるんだ。」

かれらは不明者を見つけられるのでしょうか?

「不明者のうち幾人かは遺体安置所で見つかり、それ以外はまだ見つからない。そして、かれらは別の遺体を待つ。というのも、イラク警察は遺体安置所に毎日何度も遺体を運んでくるのさ。」

わたしがAhmedと話していたら、2台のパトカーがやって来てたくさんの遺体を運んでいた。そこで待っていた人びとはみな、パトカーまで走り始めて、遺体から息子どもを探し出した(それはとても悲しい光景で、イラク人にとって、戦争よりもつらい時間だった)。この混沌としたなかで、1人が叫び出した、「わしの息子だ」。拷問のうえ殺されていた。「わしは息子を永遠に亡くした」とかれは言った。このおとこは、そこにいたみんなを泣かせ消えたかたを思い出させ、それぞれ追悼の意をかれに述べた。わたしでさえ、悲しみのしずくを隠すことはできなかった。かれの息子の片目はくり抜かれていて、身体にはたくさんの穴があった。穴はボルトによるものだったり、ドリルによるものだったり。かれらは話した後、その遺体を遺体安置所に運び入れた。わたしはそのお父さんに、名はAliさんだと聞いた。いくつかの質問も。

誰があなたの息子さんを殺したのでしょうか?

「わたしには分からない。わたしの息子は小売店主で、お店はal Rasheed通りにあった。そして3日前に警察に拘束されて、わたしは今、殺された息子を見つけたんだ。」

なぜ、奴らは息子さんを殺したのでしょうか?

「息子はスンニ派だったからさ。警察と民兵はおんなじで(かれが言うには)、奴らは訳もなくバグダードじゅうのスンニ派を殺すんだ。」

息子さんは、警察から指名手配されていたのですか?

「いや。わたしの息子は、友達みんなからもとても愛されていて、みんながかれをすきなんだよ。純粋で、悪いことなんて何もしないこだった。」

それからAliさんは泣き始め、「悲し過ぎるからこれ以上なにも質問しないでくれ」と頼んだのだった。
このインタヴューを通して、息子を亡くしたイラク人を知ることができる。
この後わたしは、遺体安置所で働くひとにインタヴューを試みるべく、なかに入ろうとしたが、なかでなにが起こっているのかをレポートする許可をどのジャーナリストにも与えないといって、入らせてもらえなかった。遺体安置所で働いている1人のAdelという名のエジプト人が、「できるだけ早く去りなさい。なぜなら(かれ曰く)この遺体安置所のFaik Bakrという名の前の責任者が死の脅迫を受けたし、ここ数か月で7000人以上のイラク人が多く後ろ手に縛られて死の軍団に殺されているからだ」と。
わたしは遺体安置所を去り、遺体安置所のなかで何が起こっているのかを知る人を探し出した。かれはその遺体安置所付近の駐車場のガードマンで、名をRamadanという。見たところ、年は40から43歳(正確には知らない)だ。わたしはかれに訊いた。

かれらは毎日どれぐらいの遺体を運んでくるのですか?

「前に、バグダード北方60キロのAl-Tajiから1日に100人以上の遺体を運んで来ていた。20体ほどしか運んでこない日もあった。平均して毎日50から60体ぐらい、95パーセントが民兵や死の軍団によって殺された人達だよ(かれが言うには)。
僕はここにいて悲しい(とかれは言った)、なぜってみんなここへ来て悲しくなってさ。いつか別の仕事を見つけてこの場所を離れたいよ。」

前に遺体安置所に入ったことは?

「うん、何度もあるよ。遺体をなかに運び入れるのを助けるためにね。」

そんな数の遺体を保つために、室温はじゅうぶんに冷やされていましたか?

「いや、そんなにじゅうぶんには冷やされてはなかったな。重なり合うようにして遺体が置かれていたり、遺体安置所のなかのそこいらじゅうの床に置いてあったりした。」


遺体はスンニ派? それともシーア派?

「どちらも。だって今、イラクは宗派戦争だもの(かれが言うには)。」

どちらからもって、どうやって知りました?

「遺体を引き取りにきた遺族を見たからね。」

これが最後のインタビューだった。わたし達はそこでたくさんの悲しい話を見出すことができたはずだけれども、わたしはできなかった。なぜなら、わたしは人間であり、わたしの国とかれらが冷血で訳もなく殺されていったことをひじょうに悲しく想うからだ。

最後に、遺体安置所で働くKais Hassan医師の発表をまとめようと思う。かれは衛星放送で述べていた。

「バグダード中央遺体安置所が収容したのは次の通り。2006年1月に1068体、2月に1110体、3月に1294体、4月に1115体。
2003年の攻撃前、わたし達は平均して毎日7から10人の遺体を引き取っていた。」

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by peaceonkaori | 2006-07-17 18:10
e0058439_17512551.jpg1つ前の記事でおしらせした「イラク人カメラマンは見た!イサム・ラシードさん緊急報告会~映像が語るイラク市民の悲劇~」は、200名を超える参加者にお集まりいただき、大盛況のうちに終えることができました。どうもありがとうございました。

わたしはスタッフとしてちょこまか動いていたため、イサムさんのお話をじっくりとお聞きすることはできなかったのだけど、満員の会場で皆さんが息を呑んで、命懸けで撮られた映像に見入ったり魂のこもった声にじっと耳をうずめたりしているのが、とてもよくつたわってきた。イサム自身も、日本の人びとがイラクに関心を寄せていることに、たいへん感謝していたみたい。

そう、それが、今のわたし達にできること。11月に来日したPEACE ON現地スタッフも講演で、「どうかイラクのことを忘れないでほしい。世界から見捨てられているとかんじることが、イラク人にとってもっともつらいことだから」と云っていた。
バグダードで4万人規模の最大「掃討作戦」がおこなわれているというのに、その報道がほとんどつかまえられない。ファルージャやラマディでの惨劇のもようも、入ってはこない。
そのうえ、サマーワは比較的安定しているから、イラクに治安維持の権限が委譲されるという。サマーワ出身のスンニ派のわたしの友人は、シーア派のバドル旅団から脅迫状を受けとってイラク国外に避難したというのに。マリキさん、サマーワは前と比べてはるかに治安が悪化しているはずよ、なぜ?

治安権限委譲をもって、治安担当でなく「復興支援」をしているはずの自衛隊が撤退するというのも、おかしな話。もちろんわたしも、自衛隊は一刻も早くイラクから撤退してほしい、と願っている。とはいえ、あまりにも筋が通らないんじゃなくて?
今のままではサマーワの住民は、「日本軍はほとんど生活を改善してくれなかった、そのうえ日本企業も来ないまま撤収なの?」なんて思っていることでしょう。

そしてもっと嘆くべきは、陸自は撤退しても、空自はさらに拡大して「復興支援」でない米軍の後方支援をつづけるということ。イサムさんも講演で、「陸軍だけでなく空軍も、日本軍を撤退させてください」と促してらっしゃった。日本びいきのイラクの皆さんがこれ以上もう日本をキライにならないために、陸海空すべての自衛隊の撤収を、唱えつづけていかなければいけないと思う。

おしらせ。イサムさん報告会の記事が、「イラクでは記者は米軍に逮捕される!現状報告会」と題し、ライブドア「PJニュース」に掲載されました。パチパチパチ。

写真は、会場前にてイサムさんとPEACE ON代表YATCH(報告会には間に合わず)と。イサムさん、今度はいつお会いできるかな。シバレイさん提供。
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by peaceonkaori | 2006-06-20 17:51
e0058439_1951825.jpg土曜日の講演会はぶじに終了。お越しくださった皆さま、ありがとうございました。
写真展会場の一角にて少人数での短時間のもの(×2)ではありましたが、イラクがいかに魅力にあふれた国で、その魅力の1つ1つが今どれほど崩され壊されているのかを、お話できたかなと思います。笑いやうなずき、泣きなどの参加者のかたがたの反応も色いろあって、わたし自身も勉強させていただきました。
ご感想などお寄せいただけるとさいわいです。

写真提供は、PEACE ON会員でもある織田朝日さん。
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by peaceonkaori | 2006-06-12 19:51

ある電話

近未来の全体主義国家を扱った映画『Vフォー・ヴェンデッタ』を観に行ったり、気仙沼からいらした相澤一夫画伯に事務所にご宿泊いただいたり、寝床で議員事務所から電話を受けたり、朝刊の1面トップの「共謀罪 一転成立へ」なんて信じたくない文字を寝ぼけ眼で追ったりと、慌しく正午の時を過ごしていたところ、もう国会へ駆けつけようという矢先に、その電話のベルは鳴った。
受話器の向こうでおとこはいきなり、「YATCHにつないでくれ」と英語でつぶやいた。「どちらさま?」と聞くと、おとこは名を告げた。

「!!!!!!!」―わたしは声にもならない感嘆符を放ちまくった後に、わたしの両の目からは土砂降りの涙が洪水となって顔面に垂れていた。生きていた、友人が生きていたのだ!

1か月以上も連絡の途絶えていた友人が。かれは、「2週間オレから連絡がなかったら、死んだと思ってくれ」と云い残し、イラクの地にいたんであった。かれを知るわたしら数名は、それぞれメールを送りつづけていたが、なんの音沙汰もなかった。「何人もがアンタのために日夜のように祈っていることを忘れんなよ」と、わたしは書き殴りつづけていたけれど、実際ひ弱なわたしは、かれからもらった手袋のキーホルダーをお守りみたいにして携帯電話につけて、肌身はなさず持ち歩いていた。季節が移ろい、手袋なんて時節はずれになったけど、それでも望みをたくして持っていたかった。

YATCHにかわると、YATCHもたいそう喜びながら「カモーン!」なんて云っている。おとこは、「カオリが泣くのを止めてくれ」とか云っていたそうだ。泣かしてンのは誰やねん、ほんまもんのアホやわ。わたしは形容しようのない笑顔の怒りをもって、再度かれに伝えた、「わたし怒ってるんよ、でもハッピーよ、ほんまによかった…」。
今はイラクを去って、ヨルダンにいるそうだ。わたしはタオルで顔を拭って、戸外にとび出しタクシに乗った。国会へ行こうっと。今日のわたしは気張れそう。だって友人が生きていたんですもの。

信じる強さを、神さまサンキュー。あのひともこのひとも、みんな生きているんだ、友達が。ミスユー、ラヴ!
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by peaceonkaori | 2006-06-04 03:37
1か月も連絡が途絶えていたイラクの友人から、携帯電話にやっとメールがあった!

かれの町で100人もの「武装勢力」といわれる人びとが米軍によって殺されたというニュースを読んでいたから、ほんとうにほんとうにしんぱいしていたのだ。PCメールも2台の携帯電話の通話も携帯電話のメールも、幾度も幾度も試みた。われながら恐ろしいことなのだけど、どこかで、あきらめてしまっている自分がいた。
かれは祖国のために外国とか往きつ戻りつしている身なのだが、今回はいとこが亡くなったのでイラクにいるのだという。かれのぶじをよろこぶべきか、いとこのかたがお亡くなりになって悲しむべきか、ふくざつに絡む心理のまま、メールを打つこの手がとまっている。

イラクでは今も人間が殺されつづけている。わたし達は生きて、できることをするしかない。
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by peaceonkaori | 2006-05-13 23:22

プレゼント

23日、帰国した代表相澤を事務所で迎える。大きな荷物いっぱい背負って帰って来た。

e0058439_3545752.jpg諸々の報告などを済ませてから、わたしへのお土産がひろげられる。今回わたしが東京事務所お留守番係だったので、フランス滞在中のバグダード支部長サラマッドとアマラの夫妻や、ヨルダンはアンマンのハニ・デラ・アリご一家などから、抱えきれないほどのプレゼントを頂戴した。「なんでカオリは来ないんだ! さびしいじゃないか」というお小言を、各地でたくさん浴びせられたらしい。やはり次からはわたしも同行しなくては!(←代表代表、この主張を読んでくださいね!)

サラマッドとアマラからは、「To Kaori our friend」と書いて、独りでもさびしくないようにとくまの縫いぐるみなどなど。かれらが選んでくれたというだけで、ほんとうにうれしくなって、頬が弛緩する。なぜか、代表YATCHがくまをだっこして遊んでいる。

ハニさんのこども達と奥様からは、「I love you」と描かれた桃色のファンシーなカードで、「親愛なるカオリへ。わたし達はとてもあなたを待ち望んでいるし、お願い、再会したいの。ハッスーニもルカイアもナバもムスタファもわたし達みんなカオリ・ラヴよ。今度YATCHが再訪する時には一緒に来てね。ハビビ(愛しいひと)」だなんて、泣かせるじゃないの。そして、ヴィデオ・メッセージまで。家族中でわたしに言葉をかけてくれている。二男のハッスーニなんて踊りまくっていて、ああ、たまらなく愛しい。感嘆符を幾ら放ってもたらないくらい。今すぐアンマンのハニ家に跳んでって、ぎゅっと抱きしめたくなる。ヴィデオを見て涙のしずくを落とすだなんて、おセンチが過ぎるかしらん。繰りかえして見た。ちょっと見ない間に、こどもってのは育ってくんやなあ。
YATCHによると、オム・ムスタファ(ハニさんの奥様)ももう14歳になった長女ナバも二男ハッスーニ以外は、バグダードへは帰りたくないと云っていたらしい。9月にわたしが訊いた時には、バグダードがなつかしい、お友達が恋しい、なんて云っていたものだけど、アンマンでの生活にも慣れてきて、今さらイラク、という感情が芽生えたのだろうか。わたしにはその気もちをどうこう口出しすることなどできない。けれどもどこかで、ぽっかりと穴があいたような感じがする。こうしてわたしの夢からまた、イラクの未来が遠のいてゆくような。そんな自分勝手な寂寥感をつのらせて、ぼーっとするわたしがあった。

そして、ヨルダン人の友人のものは、カラフルな首巻きだの「アイ・ラヴ(ハートマーク)・ヨルダン」の腕輪だのなんだかんだといっぱいつまった袋だった。そして、けっしてきれいではない字で、破ったノートに手書きのお手紙まで。YATCHによると、かれはこのたび危険なお仕事に就くことになったのだという。危険というのは、死と隣り合わせということだ。この溢れんばかりのプレゼントと読めない字で急いで書かれたお手紙、思ってはいけないと思いつつも、これが遺書のように感じて、わたしは首を振る。アンタなんか死んだらぜったい許さへんから。こうなったら、毎日でもメールをくれてやる。もらった首巻きだって毎日のように装着してやる。ほんのりと、アンマンのかおりがするの。今度アンマンで会う時には、1発でも2発でも(平和的に)ぶん殴って、それから一緒にファラフェルを頬ばろう。かれのことを考えてつい放心してしまう、いけない。かれにはかれの人生があり、信念があり、行為があるんだ。わたしはわたしのできることをしよう。次に会うまでは、それしかないんだ。

わたしを思ってくれているひとがいるというだけで、わたしは幸福の渦に巻かれて、とんでもなくハッピーになってしまう。と同時に、責任も湧く。わたしの生きかた、わたしの人生。すぐに会えるかな? 足踏みをして、わたしは再会を待ち望む。インッシャッラー(神がお望みならば)、きっと叶うわね。
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by peaceonkaori | 2006-02-27 04:01
前回11月12日付け記事の末尾に、「今とても、きんちょうしている」と記した。その自分内のきんちょうは、日に日に高まっている感がある。

事件を聞いてすぐ、アンマンに住んでいたりアンマンにいそうな友人に、「だいじょうぶなの?」とメールした。だいたいのひとからは返信があった。
もちろん罪のないひとが殺されるのは悲しい犯罪だけれども、イラクではそれは毎日毎日それこそ何10件と起きている。イラク人は、今回のアンマンでの事件のような危機に日常的にさらされている。アンマンの件だけが連日のように大きくとりあげられるのは、ひらたくいってフェアじゃない。だから、たとえばサマワにいるイラク人からは、アンマンの事件についての話題もそこそこにサマワの状況を書いてきたし、ほかのイラク人からは、以下のように云われた。

ヨルダン人については、僕はマジにはしんぱいしていないよ。なぜって、僕がタクシーに乗ったりヨルダン人たちと会ったりする時にいつだってかれらは「イラクでムジャヒディンはアッラーのもとでよくやってるよ」なんて話すから、僕は罪のない人びとでなくアメリカ人を殺すムジャヘッド(ムジャヒディンの単数形)について言って、そしていつもいつもかれらヨルダン人は「戦争なんてもんはすべて犠牲がつきものだ」って話すんだ。そう、だったら僕は今、この犠牲(アンマンでの連続爆破事件)をテストせよと思っている。信じてくれ、かれらヨルダン人はイラク人たちを人間でなく犬のように扱う、ってことを。国境では、悪い言葉で僕らを罵り、寒かろうが暑かろうが12時間も待たせやがる。でも僕はイラク人たちしかケアしない、というのもかれらはもっと悪く扱われるだろうから。ヨルダンに住むイラク人に訊いてみるといいよ、「ヨルダン人は君や君の家族をどんな風に扱うの?」ってね。

アンマンに2週間ほど滞在していた時、街で会話を交わしたヨルダン人らに「イラクをサポートしているのよ」とPEACE ONの活動を話してみると、たいていは「いいことしているね、イラクはひどいからね」とは云われるのだが、それ以上の興味を示すひととそうでないひととがいた。
全員に興味を抱いてもらえるとは思わないけれども、器のちいさいわたしはこころのどこかで「隣の国やろ、なんでそんなんやの」と思ってしまったこともあった。無論わたしはわたしなりに、地道に活動をつづけてゆくのみなのだが。

爆発物は天井に仕掛けられていたという話もある。そもそも当局は、あの短時間でどのようにして犯人をイラク人だと断定したのか? 自爆未遂犯として告白しているあの女性は何者なのか? わたしにはわからないことだらけ。

アンマンに住む大すきなイラク人の友人が、爆破事件の直後に職を解雇された(※11月21日訂正:正式には解雇ではなく、配慮であったと、本人から訂正依頼がありました。不法就労とも呼べるイラク人が多いため、国にチェックされないよう会社側が数日のお休みを与えてくれたそうです)。ヨルダンに移住したイラク避難民は50万人とも100万人ともいわれるが、かれらへの締め付けが今後ますますひどくなっていくことは間違いないと思う。昨日は1日その事実で悶々として、事務所で招聘準備などの仕事に追われつつ唸り声ばかりあげてしまっていた。
今週末にはいよいよ画家のハニさんが来日する。ヴィザはとうに取得しているのに、この期に及んでまだ日本側からのインヴィテーションが要るという。無事に飛行機で時間どおりに到着できるのかしら。イラク人であるというだけの理由でおこなわれる無駄で厭らしい検査で、ハニさんが不快な思いをしませんように、どうか。
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by peaceonkaori | 2005-11-15 10:20

アンマン爆破事件のこと

アンマンの連続爆破事件については、悲しみやら説明しがたいふしぎな気ぶんやらが入り乱れている。こころの整理はつけられていない。

朝、枕もとに置いておいた携帯電話に、幼なじみからメールが入った。「日本にいるよね? しんぱいなので返事ください」と、文字が急いていた。かなたじけないとは思ったのだけど、こちらはアンマンを出国して1月も経つのでだいじょうぶ。
そのかわり、アンマンで友達になったヨルダン人やアンマンにいるかもしれないイラク人の友達に「オーケー?」とメールするわたしは、どきどきしている。

数人からは「ありがとう、しんぱいしないで」「神のおかげだよ」と返事があった。
ただ、あるアンマンの友達の大の大の大のお友達が、被害に遭ったらしい。かれは疑問符と感嘆符を多用して、「アブ・ムサーブ(ザルカウィ)が俺の連れを殺したのか」と嘆いていた。「アブ・ムサーブは俺の敵で、すべての真なるムスリムの敵だ」と罵り、「色いろあってもヨルダンは俺の国で、俺はヨルダンを愛しているんだ」という決意にも似た感情ををあらわにしていた。
それはとても悲痛で、わたしはどう言葉をかければいいのか悩み、そのメールにたいして未だに返信できないでいる。

すきなひとのすきなひとが殺される、ついこの前にわたしの歩いた街で素敵な友人がたくさん住む街でイノセントなひとが殺される-なんだそれは、と口惜しくてならない。
「ヨルダンの9.11」という形容もされている。イラク人が犯行におよんだという、よく理解できない声明まで出ている。今後の動きはどう考えても穏やかなものにはならないだろう。今とても、きんちょうしている。
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by peaceonkaori | 2005-11-12 10:52

帰国報告会終了

e0058439_14534764.jpg16日(日)のPEACE ONイラク支援・ヨルダン帰国報告会、ぶじに終了しました。お越しくださったみなさま、ありがとうございました。

代表 相澤YATCHの挨拶から始まって、まずはわたしが、「イラク」との出逢い/「PEACE ON」との出逢いから話し始め、初めてのアラブ入り体験談とイラク脱出組の人びとの現実についてお伝えさせていただきました。
生まれて初めての報告会にもかかわらず、予定持ち時間の30分を大幅に超える1時間の暴走トーク(?)で司会のYATCHを困らせつつも、概ね好評をいただき、わたし自身も楽しめました。(その昔、週1ペースで難波までよしもとの劇場に通っていたほどのお笑いズキとしては)笑いをたくさんいただいたのが、すごく嬉しかった(←それだけやったらアカンのやけども!)。
ただ、今回はYATCHとのリレー形式というか報告内容を分担していたし、なじみの参加者さんからツッコミを受けながらの和やかな雰囲気で進行していたので、厳しく振り返れば省みる点ももちろんあり。今後もし機会があるなら、PEACE ON以外の場で単独でご報告できるよう、精進していく所存です。
PEACE ON主宰のイラク現代アートプロジェクト<LAN TO IRAQ>でお世話になっていて今回PEACE ON会員にもなられた芦澤礼子女史から、取材を受ける。

かわってYATCHからは、PEACE ONイラクプロジェクトの進捗状況や、来月に迫ったイラク人画家ハニ・デラ・アリさん&PEACE ON現地スタッフ招聘プロジェクトなどを説明。今回イラク人の人権団体から受け取った、家宅捜索という名の家屋破壊や拷問死の映像も紹介した。
イラクの最新情報は、ほんとうに厳しい。最悪を超えて最悪なんだが、そこにひとひらの希望でも見失いたくない。厳しいけど、けど、けども。

物品販売は、イラク製のクフィーヤやなつめやしで作った鍋敷き、またシリアで仕入れたシルク製品やアンティーク・シルヴァーアクセサリー、はたまたサッダーム・トランプ(イラク戦争時に米兵に配られたもの)まで、充実した品揃え。日本でイラクものが買えるのはPEACE ONだけかも? そしてもちろんTシャツ、ポストカードや缶バッヂなんかのPEACE ONオリジナルグッズもいつもどおり。
今後も講演会場などで販売します。事務所にご訪問くださってもOKですよ。ぜひお買い求めください。

終了後は、PEACE ON事務所での打ち上げ交流会。
大勢お集まりいただき、食べ物が足りなくてご免なさいー。ふだんのじぶんの粗食生活のままメニューを考えちゃったけど、お肉やお魚のない料理はやはりボリューム欠けますよねぇ。次回からは、アラブ大家族よろしく、大鍋とか大皿とか購入して腕を奮わなくっちゃ。

報告初心者の不慣れな様子をみごと写真におさめてくれたのは、ジャーナリストのシバレイ氏。どうもありがとう。
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by peaceonkaori | 2005-10-18 14:53