NPO法人PEACE ON相澤(高瀬)香緒里による日誌的記録(~2007年まで)


by peaceonkaori
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カテゴリ:中東にて( 56 )

日本で知り合ったフルードの妹、ニスリーン、そしてそのお友達のディマが宿まで迎えに来てくれる。今日は地元ダマス娘と乙女3人デート。

タキーヤ・スレイマニーエというシリア民芸のクラフト・センターへ。モザイクの木箱やアラブ服、ウードなどの楽器、金銀の装飾品、絹のショールなどのちいさなお店が並ぶ。モスクもあり、2人ともお祈りの時間だからと5分ほど祈りに行く。
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お隣には軍事博物館。イスラエルと戦った様子、戦闘用飛行機などがあるらしく、怖いからと断ったが、かのじょらはどことなく誇らしそうだった。

一瞬だけイラク難民の話題がのぼる。雰囲気から察するに、やはり快く歓迎しないと思う。そりゃそうだ。数年で国民の1割が外国人になったら、日本なんてパンクしちゃう。シリアとイラク双方から視ないといけない。

それにしてもアラビア語ができない。アラビア語を勉強中というと皆すらすらと早いアラビア語を喋るが、なかなか聞き取れない。普段イラクの友などはゆっくり話してくれていたのだなあとなんだか恥ずかしくなる。甘えてはいけない、自分はアラブのことほとんど知らないのだと知る。

アラブ諸国の絵本作家を見出せないかと、よい絵本を探して本屋巡り。外国のものだったりイスラーム教が色濃かったりと、なかなか出逢えない。日本的「絵本」が確立されていないのかもしれない。こういうのは縁やから根気よく歩くほかない。
コピー品でないほんまもんのCDも求める。シリアでは著作権という考えがないようで、お店ではオリジナルを見たことがない。今回もまた探せず。

ナスィール・シャンマやカーズィム・アッサーヒル、ファイルーズ、ナンシー・アジュラムのCDが欲しいと云うと、かのじょらはナンシーがすきじゃないとふき出す。曰く、露出した服装のことではなく「ナンシーの声は歌じゃない」。
マクハー(カフェ)でお茶でもしようと誘っても、ほんまはマクハーは嫌いで図書館などの知的なところがすきとディマ。カフェでパフェ的なものを食す。
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路地でポスターが売られている。カーズィムやナンシーに混じってバッシャール大統領も。すかさず「これがわたし達の大統領よ」とニスリーン。

再度モスクでお祈り。すっぽり覆った服じゃないヒジャーブも被らないわたしも問題ないからと礼拝所に入れてくれる。足を清め祈祷する2人の凛とした後姿をじっと見つめる。恰好よいと思う。

ディマは大学の授業へ。ニスリーンとピザ屋さんで夕食。クラフト・センターでは「こういうのすきだけど持たない」と云い、どこの国でもありそうなピザを食べ、しかし1日5回の礼拝はきちんとおこない、外国からの客へ手厚くもてなす。かのじょ達との半日から、この国の今とこれからを勝手に考察する。
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by peaceonkaori | 2007-11-04 17:31 | 中東にて

イラク家族と過ごす半日

飛行機の膝の痛む狭い座席で食べたり眠ったりを繰りかえしうんざりした頃に、ぶじにダマスカス到着。宿を確保し、中庭の民芸調になったカフェテリアでトルココーヒー(ちいさなカップで濃い煮出しコーヒーの上澄みを飲む)で一服。さてどうしようかと思案する。
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ジャラマーナへ行きたかった。「シリアのファッルージャ」とも呼ばれるイラク人の多く移り住む町で、5月に訪れた時にとても印象的だったからだ。しかし思うところあり躊躇う。したいこと/すべきこと/できること、などが頭のなかで絡まる。それでも行かない訳にはいかない。

マトアム・カーシムという名のイラク食堂を再訪。5月に映した写真を渡すと皆ぞろぞろ寄ってきて再会をよろこび合う。シュワルマのサンドイッチ、イラクの濃いお茶をいただく。
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スタッフも皆イラキーなら、お客も皆イラク人。なかにはサッカー試合のためイラク南部バスラからやって来た一団もいた。制限が厳しくなりイラク人のシリア入国は不可能に近くなったが、スポーツ選手はヴィザ取得できるという。
ワリードというおじさんに、娘が4人もいるからぜひ家に来てくれと誘われる。

シーア派の町セイダザイナブの近く、町外れにかれのアパートはあった。薄暗い部屋に佇み、娘らは不思議そうに見つめる。アッラーやムハンマドというアラビア書道のポスターやすぐに電波がおかしくなって映らなくなるテレ・ヴィジョンのほかはほとんど物が見当たらない。子ども達は1日なにをしているのかと思う。
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お茶をもらい、話を続けるうちにかのじょらと打ち解ける。「ホテルから荷物を取ってきてここで泊まりなよ。お湯のあるシャワーもお便所も寝室だってあるよ。ずっといて」と云い、「靴を隠しちゃう。鍵もかけるわよ」と強引。断っても断っても諦めない。そもそも英語がほぼ通じないどころかアラビア文字もフスハー(正則アラビア語)も危いかれらだが、わたしとのコミュニケーションを諦めない。
かのじょらの精一杯のおもてなしに感謝する一方で、ある種の居心地の悪さもこころの底に秘めていた。いつもなら必ず聞き出すイラクでの状況について、避けるように会話した。

遊びに出ようと云うので、ヒジャーブを借りる。ヒジャーブが要る要らないで議論になり、念のため頭に巻いた。わたしは用心し、用心する自分がなんとなく強烈に厭やった。外出先はなんと遊園地。空中ブランコ、ジェットコースター、日本のそれと比べると大丈夫かと思ってしまう代物だが、誰よりも叫び声を発し笑われる。子ども達は本気で喧嘩し泣き、つまり愉しんでいた。
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お母さんが帰ってくるからとまた家に引っ張られる。顔が浮かび上がる日本の紙幣に感嘆し、イラク紙幣を懐かしがるかのじょ達。仲が深まると、それまで「アラビア語学生」を名乗っていたわたしも本気で語らないといけなくなる。

おずおずと告白を始める。アメリカのイラク攻撃の最中に「人間の盾」としてバグダードの浄水場から反戦を唱えたおっとのこと、イラクの友とハンディキャップを持つ子に通学バスを届けていたこと、情勢悪化で日本人のイラク入りが難しくなったこと、今はシリアのイラク難民になにかできないかと模索していること。
とても怖かった。もし本気で向き合うなら、1か月でも1年でも毎日のように通って信頼関係を築いた上で本当は話を聞くなりしたい。知り合ってすぐに「イラクは危険だった?」「学校へは行けるの?」「親戚は大丈夫?」などと根掘り葉掘り、今のわたしには聞けない。前まではそうして声を拾いそれを日本に伝えることがわたしの使命と燃えていたのに。かれらを「戦争の国から来た家族」の1つのケースとかモデルとして捉えそうで、とにかく怖くなった。日本の誰かに、NGOスタッフ失格と非難されるかもしれない。でも誰に? こんな弱いわたしに、知ったかぶりやできるふりなどできない。この怯えのせいで、今日は居心地の悪さを感じていたのだった。

素晴らしいとワリードは云ってくれた。今日ずっと隠していたイラク型のネックレスをブラウスの開いた第一ボタンから見せると、娘はわあっと歓声をあげてこぞって手にした。存分にイラクずきをアピール。申し訳なさもちゃんと伝える。
テレ・ヴィジョンも時計も車も日本があまりにもすごいと繰りかえすので、それは技術の話でしょと例のごとく切り出し、年間3万人の自殺者の話ややさしさを失ったかのような現代日本社会の話をする。未だ米軍基地に占領されていること、ヒロシマの原爆のこと。子どもらはイラクじゃない日本にそんな大きな爆弾が落とされたことを理解できないようだった。
少しずつ、話してゆく。バグダードでは通りの銃撃戦をよく目にした娘、一年の滞在許可証はあるが国連は何もしてくれないと嘆くワリード、イラクとシリアで訛りや習慣が異なるため通学できないでお友達のいない娘、お母さんは今日で理由なくクビになったらしい。日本に難民として逃れたいと云われるが、かなり難しい現状を伝える。話してもらえてもすぐになにかできる訳じゃない。ごめんと思う。

振り切ってやっとホテルへと帰った。
己の弱さを知り、誠実な態度で、誰かと向き合うこと。今回のひとり旅は、わたし自身の根底が問われそう。往きのスーツケースは軽かったが、迷えるこころは重いものがあった。不器用なやりかたで、国際協力の在りようを考える。
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by peaceonkaori | 2007-11-04 16:52 | 中東にて
5月23日、晴れ。今日は飛行機に乗ってドバイ経由で日本に帰る日だ。
国際的に活躍しここシリアでもイラク避難民を支援しているというNGOに連絡してみるも、繋がらない。すこしでも事情が知るべく、できれば会いたかったのだけれど。

e0058439_2328363.jpgそうこうしているうちに、ハニからSMS。アルハムドゥリッラー(神のおかげで)、一家でシリアに到着したとのこと。さっそくドゥマ地区の宿泊先へと出掛ける。
イラクから手術をしにやって来たお母さんの具合は、これまたアルハムドゥリッラー。このかたがハニ達をおんな手1つで育てあげたオム・ハニ(ハニのお母さん)なのね、とご挨拶。こども達もものすごくひさびさにお祖母ちゃんと会えたのがうれしいらしく、いつもよりしょうしょう大人しいかんじ、ふふ。テレ・ヴィジョンは、日本アニメの「フランダースの犬」最終回を放映していた。
ハニはパスポートを更新、一度ヨルダンから出ても再入国が可能であると確認がとれての今回のシリア訪問だった。そう聞いてもまだしんぱいするわたし、今そのぐらいヨルダンはイラク人に厳しい。

今回は10日ほどと短く、駆け足でヨルダンとシリアを巡ることとなった。とくに、シリアに逃れてきたイラクの子どもの状況について、もっと調べてみたかった。
PEACE ONが立ち上げようとしている、イラク国外避難民支援「寺子屋プロジェクト」。すみやかな実現を目指したいと現場を見てあらためて思ったのだが、そのためには当然まだまだ準備が必要だ。この教育プロジェクトを日本国内でも積極的にうったえて、支援金を募らなければいけない。やることは山とある。国際社会に生きる人間として、戦争を応援してしまった加害国の1人の市民として、わたし達は行為をいわば試されている。
そして、わたしは個人的にも恩返しをしたい。こんなにも手ばなしの笑顔をもらい家族愛を教わらなかったら、今現在のわたしみたいに新婚生活を送ったり2年の闘病の末にうつ病を卒業したりしていただろうかと、幾ら感謝してもしたりない。イラクに恋してイラクのみんなに愛し愛される、大のイラクずきとして。

この5月24日までの滞在記録はこれでお仕舞い。UPが早くなくて、申し訳ありませんでした。
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by peaceonkaori | 2007-07-07 23:29 | 中東にて
e0058439_1625169.jpgすこし休憩、旧市街の周辺でお買い物。

スーク(市場)を歩けば、たちまち呼びこみの兄ちゃん達の声や人びとのざわめきがアーケードに反響して耳にとけてゆく。「ご婦人、とっておきのものが」と誘われても、「まあ、高いのね」と半額の値を切りだしてみる。
そういえばサラマッドとアマラは、ここシリアでゆっくりと過ごすのは初めてなんであった。アラブ人じゃないYATCHとわたしがアラブをガイドする。絹製品と証明するためにその糸をライターで燃やす手法はダマスカス商人がよくやる手法だが、アマラ達は狭いお店に呼びいれられて熱心にそれを眺めていた。評判のアイスクリーム屋さんのアイスクリームを舐めたり、世界最古のモスクの1つといわれるウマイヤド・モスクの前の露店で絞りたてのオレンジジュースを飲んだりした。
e0058439_16244794.jpgサラマッドは露店で、試着し手鏡でチェックしてぱちもんのサングラスや飼いはじめた猫のために電気じかけで動くぬいぐるみ、それに甥へのお土産といって米兵がほふく前進しながら銃を乱射する玩具を買っていた。「こんなんでえーんかい」と何度もつっこんでみたけど、サラマッドはいったんあきらめておいて路をひき返してまで兵士グッズを買いもとめたのだった。

そのほかに、ドルマを作る時にほうれん草やぶどうの葉に具をくるむ道具も。お母さんへの贈り物かな? これはフィラスも購入。わたしも我がドルマ先生ことハニ夫人オム・ムスタファにあげたいなあとも思ったのだけど、「カオリはほうれん草で巻くのがへたくそやからねえ。わたしは手でできるわ」なんて云われたらまいっちゃうなあと思いなおして止した。
フィラスはアパートメントに戻ってからもその器械を大事そうに眺めていたので、しょうしょう意地悪になっていたわたしは「お母さんのドルマ食べたいんでしょう? バクーバが恋しくなった?」と聞いてみる。フィラスは、「お母さんのドルマ、ほんますきやねん。もうすぐ家族がシリアにやって来る。そうしたら作ってもらうんや」と箱を撫で撫でしながら語ってくれた。

信任投票前ということで、大統領バッシャールのTシャツなどがさかんに売られてもいた。街のいたるところにバッシャール、毎度そうなのだけど今回はとくに多かったので、最初は面白がっていたもののさすがに目にするのも疲れてしまった。

わたし達はオリーヴ石鹸とアルギレ(水煙草)を。
今まで現地のカフェや日本の中東料理屋さんでしか味わってこなかったけど、事務所でアルギレやりたいわねえ、月に1度の"PEACE ON CAFE"で会員さん達にも吸ってもらえたら、と決意。路地のアルギレ屋さんにて、店主のお父さん手製の硝子細工をほどこした逸品。職人のプライドでさすがに値段は700シリアンポンドのまままけてもらえなかったけど、付属品をおまけしてもらい、さらにお隣でフレイバーと炭も買えた。
(追記。帰国後に荷をほどいてみると、なんと破損! 硝子がこなごなに砕けてしまっていた。なんとか口だけは残っていたので、花瓶みたいなのにパテでくっつけてとりあえずできないものかしらん、と思案中。トホホホ…。)
オリーヴ石鹸も、専門店で計算機を片手にねばりにねばって最高級のものをべんきょうしてもらった。わたしの長時間の値切りに、サラマッドは失笑していた。

e0058439_16255421.jpg道路でカメラを構えていると、タクシがピッピーとクラクションを鳴らす。通行じゃましてごめんねと横にどいたら、運転手さんは「ほらほら、わし撮って撮ってー」。ほんっとにもう、シリア人もイラーキー同様に写真ずきの笑顔じょうずなんやから。

e0058439_1626151.jpgダマスカスでは、たくさんの野良猫を見かける。「ビッズーナ」とイラク訛りで猫と戯れながらアマラが、「ねえ、わたし達シリアの野良猫プロジェクトをやらないと!」ですって。

今夜、サラマッドとアマラはヨルダン経由でフランスに帰国する。わたし達は定宿にチェックインし、キスと抱擁で2人を見送った。アマラがこそっと耳うちする。おとこ抜きの乙女トークでわたしが相談したことを、アマラは気にかけてくれていたのだった。マッサラーマ(さよなら)、わたしのお姉ちゃんとお兄ちゃん。兄弟姉妹のようなかたい絆、こうかんじるからわたしはPEACE ON(と裏組織LOVE ON!?)を宝のように想えるのだと思う。

スーク・ハミディーエの骨董品屋さんユースフさんには、一度ご挨拶したきり忙しくってゆっくりとは会えずじまいだった。
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by peaceonkaori | 2007-07-06 16:28 | 中東にて

水煙草をくゆらす

やっとフィラスが帰った後、サラマッド&アマラ夫妻とアルギレ(水煙草)カフェでダブルデート。カシオン山の夜景を目に、屋上で水煙草をぷかぷかする。
今回は航空券があまりに高いので当初サラマッドが1人でフランスから駆けつける予定だったのに、運よく安いのが入手できたためアマラと2人で来られることになった。よくよく聞いてみると、なんとサラマッドがアマラに涙を流して「1人はいやだ、一緒に来てくれ」と嘆願したのだという。きゃー、可愛い! アマラがサラマッドのあたまを撫でながら、話してくれた。
サラマッドはきまりが悪そうに、イラクのことがしんぱいで毎日なにも手がつかないことをこぼした。サラマッドもイラーキー、PEACE ONスタッフである前にかれも戦争被害者なのだ。イラク国内に家族がいる、近しい友を亡くしたりご近所さんが武器をとって戦っていたりもする、祖国が混乱の渦に呑まれている。じぶんがとりあえずは安全な他国に一時避難しているからといって、もちろんそれで万事快調なわけではない。いわれのない罪悪感が己を責め、毎晩のように悪夢にうなされている。もう、疲れているんだ。

翌晩も、フィラスはなかなか帰らない。アパートメントに戻ってサラマッドとアマラがお部屋で祈りを捧げていると、フィラスは「僕にも祈らせてくれ」と靴を脱いでシャワーで身体を清めてから祈祷し、さらに朗々とクルアーンを詠唱しはじめた。わたしがアマラから贈られた携帯用のちいさなちいさなクルアーンをフィラスに見せたら、かれは「ありがとう」と云ってそっとそれにキスをした。
アラブでは、よそのおとこがいる前で女性はあまり煙草も水煙草もやらない。わたしのような東洋のおんなは別として、アマラはさすがにフィラスがいては水煙草が吸えない。わたし達は苦笑いしながらフィラスが帰るのをしんぼうして待っていたのだけれど、ついにあきらめて街へと出た。

e0058439_2139930.jpgシリアは今ちょうど大統領の信任投票の直前で、街はお祭り騒ぎ。爆音で車が走行しているとおもてへ出てみれば、はこ乗りになった暴走族みたいな車列が我がもの顔で連なる。シリア国旗をはためかせ、「ボッロッビッデムッニブディークヤ・バッシャール(血も魂もバッシャールに捧げる)!」とテンポよく叫んでいる。「ちょっと今の聞こえた? (サッダーム時代の)イラクを思い出すわ」とアマラ達もにたにた笑っている。
ヨルダンでも、国王アブドゥッラーがスポーツをしていたり軍が行進しているプロモーション・ヴィデオのようなものが、テレ・ヴィジョンで流れていた。ハニのこどもらに聞くと、学校でもいつもアブドゥッラーに忠誠を誓うらしい。サッダームの「圧政」から「解放」されるために、イラクは侵攻された。人びとはサッダームを崇拝していた、すくなくともそうよそおっていた。だけど、隣国ヨルダンにしたってシリアにしたって、いたるところに肖像画が飾られている。車の窓にもお店の受付にもテレ・ヴィジョンにもお財布のなかにも携帯電話の待ち受け画面にも、アブドゥッラーそしてバッシャール。サッダームは最後までアメリカに反発した、だから今日の泥沼がある。闘ったサッダームを英雄視するか、おべっか使いで戦争を避けたほうが賢いと思うかは、イラク人に聞いてもそれぞれの立場で異なる。それについてわたしがなにか言うことはできないと思っている。でも…この旅の読み物に携えた日本社会臨床学会『社会臨床雑誌』第14巻第3号の小沢健二「企業的な社会、セラピー的な社会」を読みながら、深くうなずくわたしがあった。

タクシで移動する際、人数オーヴァーで助手席にサラマッドとフィラスが2人で座る。ものすごい苦しそうでつい笑うわたしにサラマッド、「これがイラク・システムさ」…!
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by peaceonkaori | 2007-07-05 21:43 | 中東にて
遅れに遅れている、シリア滞在の記録をもうすこし。

5月22日、今日はダマスカスのジャラマーナ地区を訪ねてみる。
ここはキリスト教者の多い町で、聞けば現在イラク人が10万人ほども住んでいるのだという。逃れてきたイラク人が最初にやって来た町ともいわれ、ファッルージャへのシンパシーからジャラマーナは「ファッルージャ」と呼ばれているのだそう。
広場にたむろしていたおじさん達に話しかけてみると、かれらはバグダードのドーラ地区から避難してきたキリスト教徒だった。「水なし、電気なし、安全なしで、たいへんやった」とトホホな暮らしぶりを、それでも笑みをたたえて喋ってくれる。停めてある車のナンバープレートも、イラクのものがたくさんあった。
e0058439_1724067.jpg通りに、イラク食堂がオープンしていた。なんでもバグダードのアザミヤ地区からお店まるまる引っ越してきたらしく、働いているかたも全員がイラーキー。お店じゅうのスタッフがよろこび勇んでおもてなししてくれる。イラクのチャイに、イラクのパン、机に乗りきらないイラクのお料理の数々。なつかしの味に、頬の弛緩したサラマッドが笑顔で食らいつく。わたしもすっかりうれしくなって1人、厨房のほうへ進んでみると、おくには「わしはドレイミ族の者や」とか「俺はファッルージャで戦っていたんやー」と自慢(?)する料理人とワーッと盛りあげる周りのひと達。びっくりしてもっと聞いてみようと思ったのに、そこでフィラスに呼びかえされた。
e0058439_17241914.jpg(追記。後日この食堂を訪れた知り合いによると、携帯電話で撮ったわたしとのツーショットをまだ保存していて見せてくれた、とのこと。とってもうれしいエピソード。「なんや日本から来た娘が、イラクすきすきとかって俺らの国の形したネックレスまでつけてはしゃいでいたよなあ」なんて思い出してくれていたなら、最高やなあと思う。)
パン焼き担当のアブ・オマルさんのお宅に連れて行ってもらう。アブ・オマルさんは、以前サッダーム・フセインの時代は宮殿で働いていたため、2003年4月の陥落後から身が危険になっていった。おまけに、息子のオマルくんはその名がスンニ派の独特なものだという理由だけで4度も転校。とうとうシリアにまで避難することとなった。イラクからの仕送りと食堂のお給料を足しても、まだまだ苦しいという。おくさんがこどもに勉強を教えているので、シリアの学校でもついていけているそう。ちなみに、おくさんはシーア派。

ジャラマーナの印象は、シリア人にとってあまり良くないかもしれない。貧困からイラク女性が売春などに走るケースも増えたと聞く。
今や、シリアという国の人口の10分の1にまでふくれ上がったイラク避難民。祖国の情勢、生活のこと…絶望に陥ったかれらがイラクから離れて新たな混乱の渦に呑まれる事態は、じゅうぶんに考えられる。そして、しわよせはいつもこども達にふりかかる。
PEACE ONでは、こどものライフのためにまたイラクの将来のために、シリアのイラク避難民の教育をサポートしようと計画している。こども達が創りだす未来は、そのまんまわたし達のいるこの世界の未来である。世界の友達としてどう振る舞うのか? わたし達は行為しなけばいけないと思う。
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by peaceonkaori | 2007-07-04 17:22 | 中東にて
朝、ダマスカスのアパートメントを出たとたんにおもてでぬぼーっと立っていた青年に道を尋ねる。かれの名はフィラス、ディアラのバクーバから来たイラク人だという。2004年にイラクを出国してシリアの大学で論理学を専攻していたけれど、お金がもたなくなって今は学校へは行っていないとのこと。
ここから3日3晩、なぜかフィラスはわたし達と行動をともにすることになる。

シリアで、イラクからの避難民は急増している。その数、140万人とも250万人ともいわれる。ヨルダンがイラク人の入国にたいして厳しくなって今ではビジネスマンなどのお金持ちしかほとんど見なくなったのに比べて、シリアでは命からがら逃れてきた貧しいイラーキーが多いとも聞く。
今回は、シリアにいるイラクのこどもにPEACE ONとしてなにかできないものかと、その調査にやって来たのである。

e0058439_19322635.jpge0058439_19324998.jpgさっそく、わたし達はダマスカスのシナーア地区へと赴いた。
フィラスは、道を行くひとや玄関を叩いて出てきたこどもに突然「イラーキー?」と尋ねる、強引な手法。本人曰く、「だってイラクの匂いがするから」。

小学校などちいさいこども達は通学できているそうだ。高校生にもなるとバグダードの教育省まで書類を取りに行かないといけないらしく、そんな危ないことはできないからと、出逢ったハッターブくんはスーパーマーケットで働いて家計を支えていた。
シナーア地区にはたくさんのイラク家族が住んでいると聞いたとおりで、道を歩けばイラク人が集まってきて色いろと教えてくれるのだった。イラクの形をしたペンダントを身につけて遊んでいる少女もいた。

訪ねたお家では、男性へのインタヴューはサラマッドやYATCHに任せ、わたしはいつも女性やこども達と遊んでいる。こんなヤバン(日本)の小娘が可笑しなアラビア語でイラク大すきとか云ってはしゃぐので、向こうのきんちょうもほぐれるみたい。お台所などにも入らせてもらえて、暮らしぶりやおんなの本音なんかもよく分かる。

皆が口をそろえて、シリアはよいところであまり問題もなく生活できる、と言う。外国人がいきなりおしかけてなんか話してくれというのも、限界があると思う。それにかれらも、イラクみたいに治安が最悪なわけでもなくヨルダンみたいに追い返されもせずシリアに住めているのだから、実際そうなのだろう。
でも、もうすこしなにかが見えてもいい気がする。策を練らなければ。

翌日、フィラス遅刻。セルビス(乗り合いタクシ)に乗り、首都ダマスカスから1時間強のところにあるちいさな町ディアアティーアへ。

e0058439_19331582.jpgオートバイに乗ったイマームをひき止める。かれはこの町のことをよく知る人物。イラーキーが移り住んでいるのも把握しているけどもとくに問題はなさそう、とのご返答。
日本の僧侶がスクーターで檀家参りに行っているようなもんで、こっちのイマームもバイクでうろうろするんやな。妙な親近感。

e0058439_19333516.jpgバグダードから来たサリさんは、4人のこどもを抱えていた。学校は通えてもイラクとシリアとではレヴェルの違いもあり、わたし達がやろうとしている「寺子屋プロジェクト」は大歓迎だと云ってくれた。かれ自身が教師なので、なにか手伝えるとも。

この町でイラク人を支援するグループにも会ってみた。話し合った末、この町でPEACE ONがプロジェクトをおこなうなら、協力してくれるとのこと。こころ強い。

e0058439_1934266.jpgアブ・アマルさん一家は、イラク中部ファッルージャから。米軍による2004年の大侵攻で家業のモバイル・ショップがめちゃめちゃにされ、国内の親戚も殺害が相次いで、シリアに辿り着いたのだという。3人のこども達は、授業についていけなかったりなじめなかったりで、いつまたイラクに戻るかも分からないので、シリアの学校に通うのをやめた。こどもらは帰国したがるけども、今のファッルージャはまるで地獄だし、とアブ・アマルさんは悩んでいる。現在は無職、貯金が底をついたらイラクに戻らざるをえない、とふあんそうだった。
…急に、風景が止まったようだった。アブ・アマルさんは日本人のわたしのほうを向いて、「ファッルージャはちいさなヒロシマだよ」と力なくつぶやいた。イラク人にとって、日本といえばヒロシマ・ナガサキ。その日本人になんとか共感してもらおうと必死に訴えているのが、痛いほどに伝わってきた。今までルカイアちゃんやアナスくんらこどもとコミュニケーションをとりながらおとこどもが喋るのをただ聞いていたわたしだったが、どうしても堪え切れなくなって震える涙声でアブ・アマルさんに告げた。「ほんとうに、ほんとうにごめんなさい。わたしはファッルージャの住民1人1人に謝りたいのです。日本政府はイラク戦争やファッルージャ総攻撃を支持してしまった。わたしが謝罪してもどうにもならんのだけど、それでも云わせてほしい。ごめんなさい」と。かれはしずかにほほ笑んで、「政府は政府、市民は市民ですよ。ありがとう」と云ってくれた。恥ずかしさと、申し訳なさでいっぱいだった。ハニに泣きじゃくってあたまを下げたあの時みたいに。「もう、おいとましよう」、サラマッドが立ち上がった。

帰り際、商店のおじさんが「ほれ、飲みよし」と瓶ジュースを持たせてくれた。かれもまた、ドレイミ族のイラーキーだった。シュワルマのサンドイッチを買って、一路ダマスカスへとひき返す。
明日もイラーキーの声を聞こう。わたしが今すべきことは、それなのだから。
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by peaceonkaori | 2007-06-19 19:41 | 中東にて
5月20日、今日はヨルダンからシリアへと向かう。

アパートメントの最後の1泊を、17ディナールから15ディナールに負けてもらう。大家さんに「アルジューク(お願い)」とにこにこしたら、OKだった。食事をごちそうしてもらったり自炊したりして、けっきょくヨルダンでは外食代を1銭も払わなかったな。
お昼時にハニのお宅に寄り、みんなでドルマ。やっぱり、これを食べなくっちゃね。二女ルカイアが、「アイラヴユー、カオリ」と云って離さない。何度も抱擁を交わす。

アブダリのバスターミナルで、サラマッド&アマラと待ち合わせる。ダマスカス行きのセルビス(乗り合いタクシ)のおじさんが、4人で36ディナールともちかけるので、わたしは30ディナール(約5200円)まで値下げさせた。まけてもろてナンボやねん、こっちも生活かかっとんねん。サラマッドは別のセルビス会社で、もっと高くふっかけられていた。

ヨルダン国境では、やはりイラク人サラマッドに時間をとられてしまった。入国ならともかく出国するんやからさっさとスタンプ押しよしなー、とこっちは思うのだけれど、書類を書かされたり別の所に呼ばれたり、なんとなくイライラする。サラマッドの隣でじーっとお役人を見据えていたら、「この日本人は手続き終わっているのになんだ」というようなことを言われてしまい、サラマッドが苦笑しながら弁明していた。むぅ。
やっとこさ済ませてセルビスの助手席に座ったサラマッドが後部座席のわたし達をふり返り一言、「なァ、イラク国籍やめよっか」。

運転手さんが気に入ってわたしに、「アロー、カハロー、シッティー、シッティーヤシッティー」と繰りかえし歌わせる。自分の携帯電話の"着うた"にしている、アイドル歌手のイントロらしい。ヤバニエ(日本人のおんな)が口ずさむので、大いに満足していた。かれはシリアに入って途中の幹線道路でほかの運転手さんと交代し、去り際にもまだ「アロー、カハロー…」と念をおしていた。

お宿はどうしようかと話していると、運転手さんが不動産屋さんを紹介してくれるという。シリアでもアパートメント、悪くはないな。
1件目。2部屋の寝室と居間、お台所、お便所、シャワー。イラク避難民の多い地区らしくそれはそれで都合がいいのだけれど、繁華街から遠くてほかの町に行きにくいので、却下。
2件目は、幾らか狭いしきれいでもないけども同じような間取りで、3泊100ドル。「ちょっとお高いのでは?」と渋るわたし、でももう遅い時間だし疲れているし、ということでこの物件に決定。アマラはさっそく出たコックローチに、「サヘー(まじで)!」と甲高い声で悲鳴をあげていた。婦女子2人でぷるぷる。サラマッドと「化学兵器の出番やね」と言いながら、殺虫スプレーを買いに走る。

e0058439_12434314.jpgお母さんの手術のためにイラク西部アンバールからダマスカスに出てきているハニの弟マージドに、ハニからのたいせつな預かり物を渡すため、アパートメントまで来てもらう。はじめてのご対面でどぎまぎするも、一瞬で仲良しになれた。だってこのお顔、ほんまにハニとそっくりなんですもん。
マージドは、アンバールで測量士をしているらしい。ハニに説明されてわたし達が「測量士のことやんね」と確認していると、ハニはそれを英語と勘違いして「ソクリョオシ…?」と覚えようとしていた。や、日本語です。
オム・ハニ(ハニのお母さん)は、おんな手1つでミシンをカタカタいわせながら生計を立てこども達を育ててきた。ハニの新しいプロモーション・ヴィデオ「グリーン・フィッシュ」には、風車のような輪が回転しているシーンがある。それは、故郷ヒートの風車の光景やお母さんのミシンを思い出してのものだという。
アンバールの田舎地帯、インシャッラー(神がお望みならば)新婚旅行に案内してやろうと、昔ハニが約束してくれたっけ。そうね、いつの日か、そう遠くない日に?

玄関の引き戸には鍵がついていなかったので、サラマッドがカーテンのボンボンをきつく縛りつけた。ふあんがるわたしにサラマッドはニヤリとして、「これがバグダード式さ」。ら、乱暴やな!
さてさて、サラマッド&アマラと共同生活のはじまりはじまり。
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by peaceonkaori | 2007-06-19 13:00 | 中東にて
会おう会おうと言いながら3日間も連絡が途絶えていたシルワンから、やっと約束の電話。
ハニ一家と、シルワンは「ムシーバ(大問題)」と半ば呆れ、「ヤハラーム(ご愁傷さま)」と笑っていたところだ。創作活動に入ると、シルワンはハイワーン(動物)のようになる。語呂がいいので「シルワーン、ハイワーン」と繰りかえし笑い合っていたら、ハニのこども達まで真似をして怒られる(シルワンには内緒)。

e0058439_161194.jpge0058439_1602685.jpgシルワンは、ハニ夫妻とわたしら夫妻をマタアム・イラーキー(イラク食堂)に招待してくれた。アンマン住宅街にあるマスグーフのお店へ。水槽で泳ぐ群れからイキのいいのをシルワンが選び、お店の料理人さんがそれをひらきにして窯のなかに突っこむ。
バグダードのヘワー・アートギャラリーの裏庭でオーナーのカシム・サブティが作っていたのを写真で見て以来、わたしも食べたくって仕方なかったのだ。ハニやシルワンにそのことを話すと、遠い目になってバグダードのギャラリーやカシムを懐かしんでいるようだった。

e0058439_1613149.jpgさっきまでぴちぴち泳いでいたお魚は今、じゅうじゅうと旨そうな汁を垂らし、眼前に並べられる。ビスミッラー(いただきます)。レモンをかけてフブス(パン)やスープやトルシー(お漬物)などと一緒に頬ばる。鯉のような川魚で、お味もちょうどそんなかんじ。肉厚のボディ、生き物をいただくというのがどれほど有難いのかがよく分かる。イラクの河では、漁獲高が激減しているという。わたし達がいただいたのはヨルダン産だった。
2月にシルワンに別のイラク食堂に招待してもらった時、イラクで暴れている民兵のマハディ軍の連中が入店してきたことがあったが、その後そのひとはイラクで殺されたのだという。シルワンがあっけらかんとして教えてくれた。

また、前回オーファリー・ギャラリーで開催された個展「ONLY SLOGANS」がイラク大使館の目に留まり、シルワンは近々スペインのイラク大使館の招きでスペインにて展覧会をおこなうそうだ。あれだけ傀儡政府を揶揄したものがイラク大使館のお気に召すだなんて、ちょっとびっくり。でも、とにもかくにもマブルーク(おめでとう)。

短い時間だったけど、シルワンに会えてしあわせいっぱいおなかもいっぱい。シルワンと日本の「ふるさと」を歌いながら、イラクの友と過ごすよろこびを味わうわたしがあった。
明日はいよいよ、シリアへ向けヨルダン出国だ。
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by peaceonkaori | 2007-06-18 16:02 | 中東にて

家族ぐるみのおつきあい

朝から不機嫌なおっとを残してプチ家出。「今からお家に行ってもいい?」とハニの長女ナバに電話をかけるとナバは、「もちろんよ。ここはカオリのお家よ」と言ってくれた。休日のハニ宅で、こども達やオム・ムスタファと遊ぶ。「カオリを探して通りをうろついているんじゃない?」と言われても、フンっと思う(後で聞くと、出てゆくわたしをバルコニーから見て、わたしが携帯電話で話しながらハニ家のほうへ歩くのであんしんしていたらしい。キーッ!)。
深夜にフランスからやって来たPEACE ONイラク人スタッフのサラマッド&アマラ夫妻と合流。やはりイラーキーのヨルダン入国は厳しく、サラマッドはフランス人アマラとの結婚が証明されてアルハムドゥリッラー(神のおかげで)、やっと通過できたそうだ。
こちらの味方につけたハニの二女ルカイアと、玄関の扉を指さしておっとに「バラ(出て行け)」と言ってからかう。二男フセインが、大きなハートに入ったうちら夫婦の絵を描いてくれる。

昼ごはんは、ムサンナ宅に招待される。おくさんのスーハはパレスチナ人なので、パレスチナ料理をメインに、アラブ料理がずらりと並ぶ。お台所ではおくさん達の井戸端会議、手を動かしながらわたしも参加。こどもらにこども部屋にも連行され、なぜか「カオリ! カオリ!」の大合唱。アラビア語には母音は基本的にア・イ・ウしかないので、カオリは「カーウリ」になる。
e0058439_2320869.jpg初対面のYATCHは、ムサンナにかれのカリグラフィについて説明を受けていた。ムサンナは、歌声がほんとううつくしくって耳が惚れ惚れするのだが、今日は調子がおかしいといって聞けなかった。残念。

e0058439_23203186.jpg食後のティータイム。わたしのお茶にスプーンが2つついていたので、嬉々として思わず「サラマーッド」と叫んでしまう。先日のイベント「イラクに咲く花in豊橋」でのめおとトークのためにサラマッドに教えてもらったイラクのお茶エピソードで、「誤って2つティースプーンが添えられていたら、そのひとは将来2人のお嫁さんをもらうことができるだろう」というのがあったのだ。「イエーイ、花婿さんもう1人!」とこぶし振ってはしゃぐわたしと、「それ僕にくれ~」と奮闘するおっと。周りのイラーキー達は、そんな小噺もあったなあという風に面白がっていた。
スプーンは、ハニが仕掛けたに違いない。

イラーキーに助けられての、仲直り。
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by peaceonkaori | 2007-06-17 23:23 | 中東にて