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NPO法人PEACE ON相澤(高瀬)香緒里による日誌的記録(~2007年まで)


by peaceonkaori
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出発直前まで事務所であたふた準備をしていると、用があるからといってジャーナリストの安田純平さんがやって来た。代表YATCHと3人でビールなど飲みつつ、安田さんはごろごろ、わたし達はPC仕事をしていた。そのまま出発時刻になり、見送られる形でさよなら。
2003年の冬、わたしは松本でちょっとした記者のような仕事をしていた。安田さんが戦争が始まるであろうイラクに出発する直前の報告会、それを取材したのが安田さんとの出会いだった。かれとの雑談のなかで一市民としてイラク戦争へ行けると知っていよいよ、わたしはイラクに興味を抱くようになり、戦争へは行かなかったものの、その後悔からじょじょにイラク行きの夢がふくらみ、ついにかれをとおしてPEACE ONを知ったのだから、かれにはある種の恩をかんじざるをえない。
そんなこんなで、わたしの初めてのアラブ行きをかれに見届けられたのは、なにか象徴的というか暗示的というか、妙に感慨深いものがあった。ま、考え過ぎなんですけどもね。

そうしてふだんの延長のような感じで羽田から関西空港まで飛び、エミレーツ航空に乗り換える。
アンマンまで(9月19-20日)_e0058439_40913.jpgエミレーツの機内食は美味しかった。わたしはチキンを頼んだのだが、もちろん宗教的にきちんとほふられたハラール料理。豚肉は出さないらしい。それに、定刻になると、メッカの方角を映像で示してくれる。わたしの周囲で祈祷するイスラム教徒はいないみたいだけれど(夜更けだから皆ぐーすか)、そんな1つ1つがアラブに近づいていっている手ごたえがして、なんだか…いいのよ!
さあて、わたしも寝なくっちゃ。その前に、ビールをもう1杯。 隣でYATCHは、戦闘ゲームに興じていた。

ドバイ時刻で午前4時過ぎに到着。朝焼けでも拝もうかと空港内を散策していると、礼拝の声が聞こえてきた。空港にも男女別のモスクが設けられているのだ。

「エクスキューズミー、にほんじん?」―急に声がかかり、そこには黒色のベレー帽をななめにかぶり鼻のあたまにあぶら汗をたっぷりかいたおじいさんが立っていた。
聴くと、真夜中の飛行機に乗り遅れたソウルのかたで、翌日のチケットと交換してもらえたもののどうしたらいいかわからない、韓国語は通じないし日本語がすこし話せるだけで英語は話せない、とだいぶお困りのよう。わたし達はチケット片手に、インフォメーションセンターやらエミレーツ航空デスクやら大韓航空デスクやらを行き来して、2-3時間が過ぎる。結果、やはり翌日=今夜2時まで待たねばならないことが判明した。夕方6時に発つ他の航空会社のチケットは、2100ドルもしてとても払えたもんじゃない。ソウルの飛行場に迎えに来る妻がしんぱいだと繰りかえされるので、国際電話もかけた。搭乗時刻とインフォメーション画面の見方を何度も何度も確認した。
アンマンまで(9月19-20日)_e0058439_359555.jpgきちんとネクタイをしめたその73歳のキムさんは、カイロに住む娘と孫に会いに行った帰りのトランジットとしてドバイに降り立ったそうだ。韓国の国力が弱いせいで乗客が3人しかいなかったから飛んでくれなかったんだとかれは主張したが、実際は搭乗時刻の仕組みを知らずに乗り過ごしてしまっただけだった。知らない国で言葉もつうじずただ独り、さぞ心細かったことと思う。キムさんは涙を流しそうになりながら、わたし達にお礼を述べてくださった。コーヒーを飲んで落ち着いて、いろいろと話をした。
国民学校の生徒だったかれは、思春期の頃に日本から解放されたことになる。アジアに対して日本はとても悪いことをしたといってわたし達が謝ると、キムさんはそんなことはまったくないどころか日本人は世界的に正直で良心があるとまで云ってくださった。韓国が強かったら韓国がほかの国を植民地にしていただろうし、日本人はやさしかった、中国の下についていたら今頃こんなに発展していなかっただろうから日本でよかった、と。かれが日本語を話せることにすくなからずの心苦しさをかんじていたわたし達だったが、そのおかげでキムさんと出逢えたのだし、キムさんのすこしでもお役に立てたわけだから、この複雑な心理はどう云ったらいいのかわからない。昨今の報道では反日のムードばかりが伝えられるが、かれのように思っているひともいるということを忘れないでおきたい。
住所交換をして握手をしてお別れした。キムさんは今夜、ぶじに乗れるだろうか。雑魚寝もせず(「どうぞ寝てくださいね」というと「方法がない」といわれた)食事もろくにとらないで(使いかたがわからないといってドバイ通貨をくださった)丸1日を過ごすのは、年齢的にかなりきついだろう。とってもしんぱい。

朝も明けたことだしと、わたし達はバスに乗ってドバイの繁華街へと繰りだす。ヒューミッド! そこは、想像していたアラブの気候ではなかった。海沿いだけあって、湿気が高い。重い荷物と空腹と睡眠不足、それにこの威圧的な蒸し暑さが、わたし達をぐったりさせた。川辺でジュースを飲んで、この街がそれほど魅力的じゃないことこぼす。建ち並ぶビルディング、如何にも作られた街という感じ。「ナリキンやね」「アカンね」と話し合いながら、大衆食堂に入っていった。
アンマンまで(9月19-20日)_e0058439_42253.jpgファラフェルというコロッケのような揚げ物とビーンズ料理を注文する。それを薄焼きパンで巻いてかぶりつく。隣席のアラブおじさんなんかは手でチョッチョッチョっとおかずをあつめて摘まむのだけど、初心者のわたしはなかなかうまくいかない。YATCHはさすがにまあまあといったところ。カクテル(フルーツミックスジュース)もヨシ。「タイーブ、タイーブ(美味しい)」と明るく口にしながら、元気をとりもどしていった。うん、やっぱり旅はお食事から始めなくっちゃ。やっとアラブに来たような心もちがしてきた。
「シュクラン(ありがとう)」と云うと、「アフワン(どういたしまして)」と返してくれるアラブ人。ただしニヤリとして。「きゃー、初"アフワン"いただきました!」などといちいちはしゃぐわたしを、YATCHは愉快そうに眺めている。なにせファーストアラブ娘、こうなんである。
あまり見るものもなかったので、空港に戻ることにした。往きのバスでも婦女子のわたしに席を譲ってくれたり、帰りだって「エアポート、エアポート」とお客さんがこぞって降りる停留所を教えてくれたり、親切なアラブの気質を目のあたりにして感謝する。話には聞いていたけど実際に触れてみるのは全然、違う。沈黙のうちに席を奪い合うようなトーキョーなんぞ、まるで陳腐だ。

空港のインターネットカフェで、YATCHがメールを拾う。あまりシチュエーションの良くないメールを受け取ってからここ数日、現地スタッフとの連絡が途絶えていた。「How do you feel now?」「Now? I'm worried about him and Kim-san」とか会話するほど、わたし達は気がかりだった。かれからのメールは、なかった。

アイリッシュパブでギネス飲みつつ、書き物を。そしてふたたび搭乗。キムさんとは遭えなかった。ああ、数秒ごとにキムさんが浮かんでくる。ほんとうに、しんぱいだ。

ドバイからアンマンへと行く途中、わたしは訳のわからないおセンチに溢れていた。ずっと夢見ていたアンマン行きを眼前に、恐いのだろうか。現在地を示すモニタの地図を見てバグダードやナジャフなんかのイラクの地名が出てくるたび、「突撃!」なんて冗談を交わす。こんなに近づいているのに、飛行機はイラクへは向かわなかった。こんなに近づいているのに、そこは遠かった。たぶん、わたしはそれが悲しいのだ。
隣のYATCHにそう告白すると、かれはうなずいてくれた。だけど、6度のイラク入りを果たしているかれにとっては、わたしとはまた異なるより複雑な感情を抱いていることと思う。なぜ、わたし達はイラクへ入れないのか、と呪文のようにこころで唱える。とにもかくにも、アンマン。

クイーン・アリア国際空港からアンマンの中心地までは、空港バスで40分ほど。埃っぽいそのバスに、わたしはすこし鼻水を垂らした。「きたないでしょ。でもアンマンからバグダードに行くバスは、もっときたなかったなあ」とYATCH。

バスターミナルで降りて、坂を歩く。さっそく「スーリア?」とシリア行きタクシーが声をかけてきたりする。わたし達は流しのタクシーをつかまえた。降車場のそばに停まっているタクシーは、外国人を見るとぼったくったりするからだ。

ガーデンズホテルに到着。チェックインの交渉をしていたその時、ああ! それはなんてミラクルな出来事だったでしょう。そこに現れたのは、なんとなんと現地スタッフだったのだ。
かれとYATCHが熱い抱擁を交わしているその後ろで、わたしは涙が終わらなかった。世界中で最も会いたかったかれ、あんなにしんぱいを重ねてきたかれが、今わたしの目の前に立ってこれ以上ないやさしい微笑みを浮かべている。それが、それがわたしにとってどんなに素晴らしい光景だったか、ここに書き留めることはできない。かれはわたしに気がついた。「ほんとにほんとに、あなたをしんぱいしていたのよ」「すっごく会いたかった」と泣きじゃくって云うわたしを、かれはその微笑みでつつんでくれた。とても、ピースフルな瞬間だった。

移動の疲れ、また諸々の疲れがどっと出て、ぐっすりと眠りこんだ。今まで生きてきた27年間で、いっとう長い誕生日だった。
# by peaceonkaori | 2005-09-23 04:04 | 中東にて
アンマンに到着しました。
着いたのが夜だったのと、2日連続インターネットカフェでじぶんのPCがうまく接続できないため、すっかりご報告が遅れました。ごしんぱいくださっていたみなさま、申し訳ございません。

こちらで携帯電話番号を取得しました。0799814362です。
ヨルダン以外のかたは、ヨルダンの国番号+962に上記番号の0をとっておかけください。
6時間の時差があります。

滞在ホテルは、ガーデンズホテルというところです。
よろしくお願いします。
# by peaceonkaori | 2005-09-23 03:55 | おしらせ

来たるべき旅立ちを前に

もう出国の日だというのに、向こうではできないHP更新や封書発送作業などの事務仕事を猛烈な勢いでこなし、徹夜してしまっている。荷造りなんて全然まだ。ぎりぎり魂、アカンなあ。

そんななのに、お昼間は浅草散策、並木藪蕎麦でしっぽりと樽酒をやったりお蕎麦をたぐったり、アンマンで会う人びとへのお土産を買ったりしていた。
夜にはキッド・アイラック・アート・ホールにて「もしも僕がイラク人だったら」 というお芝居を観劇した。SNSのMixiで知った大根健一さんというかたの企画公演で、大根さんはイラクに行ったこともなければ情報に詳しくもないのだけれど、ただ「想像」したのだそうだ。想像に想像を重ねて仕上がったお芝居には、もちろん事実と異なる点もあった。だけど、そんなことは問題ではなかった。大根さんのつぶやきで始まりつぶやきで終わるこの劇は、日本の「ふつー」とリンクさせる効果を確実にあげていた。かれは、ニュースに死傷者の名前や家族構成やその他もろもろの情報がないからと、インターネットで片っぱしから検索し、やっと見つけた1人の青年を主人公に据える。詳細は分からないから、クラスター爆弾で怪我をし、弟とお母さんを亡くしたことにした。その顛末。
想像する作業―それは人間がけっして怠ってはいけない行為のひとつだと、思う。わたしは劇中、2003年春のあの頃を思い出していた。イラク戦争中にイラクへ行きたくてでもけっきょくは行かなくて、日本で毎日毎日、想像していた。イラクのおんなのこの日常を、まだ見ぬその魅力的な国とそこを襲いつくす暴力とを。今でこそこんな仕事をしているから、わたしはイラクを訪れたことがないにもかかわらず、中途半端にイラクを知った気でいるし実際に勉強しなければならない立場ではある。けれどもわたしは想像しているうちに、ほんとうに行ってみたくなったのだ。悶々、悶々と。イエス、それは今でも変わらない。だけど、この情勢の悪化がそれを阻んでいる。くそーっと思う、心底。

1年前の今日9月19日は、PEACE ON初出勤の日でもある。2004年4月の第1次ファッルージャ大虐殺で耐え切れなくなったわたしは、イラクに行きたくてPEACE ONと出逢った。その時はまだ松本で大手企業の秘書に就いていたわたしはさっそく辞意を表明し、退職を迫った。9月20日がわたしの誕生日だから、縁かつぎみたいだけど、それまでにはPEACE ONで働いていたかったのだ。無理をいって17日に最終日、18日は引っ越して、19日から働き始めた。
そして今年の9月20日はアンマンに降り立つ日。
以前から会員さんに、「かおりんはアラブに行くべきですよ」とか「行かしてあげたいねえ、すまんねえ」とか云われてきた。会員さんにそんな風に云われる事務局員、これほど有り難いことがほかにある? なんてハッピーなの、と感謝が絶えない。今回のアンマン行きに際してだって、「飛行機に乗る前に、階段などから落ちないよう、くれぐれも気をつけてください」、「ヨルダンに行っても、イラク入国は絶対しないでくださいね。すごく心配です」、「アンマンへの研修、本当に良かったですね。やはり、隣国とはいえ現地に行かなくては」、「さて、かおりん。あなたもアラブに出掛けて活躍するのですね。いろんなものを観て感動してください!」なんていうお言葉をかけてくださる。お守りまでくだすった。わたし、めぐまれてる。
中東=不安という図式を払拭できないでいる家族や友人知人ですらも、全身でしんぱいしつつかおりのやりたいことだからと見守ってくれている。消え入りそうな声でいってらっしゃいと電話をくれたおちびちゃん(お守りといってバックパックを譲ってくれたり)、「貴方には、貴方を心配して見守っている家族が、元気な帰国を待っている家族が、京都に居る事を忘れないように」と語る父(わたしがお転婆に奔放に国内じゅうを放浪ばっかしていた頃、父がいつも「かおりさんはどこに行っているかわからない。この事故に巻き込まれているかもわからない」とニュースを見るたびこぼしていたのだと、最近になって姉がわたしに諭した)、「現地で『もしかしてイラクに行けるかもよ』なんて話になっても、どうかどうか思いとどまって下さるよう願ってます。PEACE ONの活動が尊いのは分かっていますが、あなたの命は私達にとっては、もっともっと尊い」などと涙を落としてしまうほどの友人からのフレーズ。
今回のアンマン行きの準備を進めているうちに、跪いて祈りを捧げたくなるような瞬間が幾度あったことでしょう。PEACE ONにいて、わたしは愛し愛されて生きるということを学んだ。イラク人のくれるメールのいかにやさしいことか(戦火のなかにいてかれらはこの日本の少女に「I hope you are fine」と書いてくれる)、会員さんらとの会話でいかに元気づけられることか。イラクというわたしにとって未知であり既知であるような国のすぐそばまで出掛けていって、頬ずりをするようなていでわたしは2週間を過ごすんだ。たくさんのイラク人とお友達になってみせる。あふれるユニヴァース、あふれるシュクランを胸に。全力で、お仕事させてもらいます。

最低速度を守れ!ってね。いってまいります。
# by peaceonkaori | 2005-09-19 05:02

事前説明会終了

事前説明会終了_e0058439_21401866.jpgおしらせしていたアンマン行き事前説明会と安田純平氏・村上和巳氏報告会、昨日ぶじに開催しました。お出でくださったみなさま、ありがとうございました。
代表の相澤がこれまでの支援の経過や今後の計画について説明し、研修という位置づけで同行を希望したわたしからもひとことご挨拶させていただきました。

みんな大すき瑠璃屋さんのパン(9/6記事「アラブ風ブランチ-瑠璃屋さんの食べもの」ご参照)は完売。瑠璃屋さんのご厚意で、売り上げは全額イラク支援金とさせていただきました。こうして、お店屋さんが良い商品をカンパしてくださり、それを美味しいからといってみんなが購入、その売り上げがイラク寄付になる…なんて素敵な循環なの、と感動する。瑠璃屋さん、また会場でご寄付してくださったみなさま、どうもありがとうございます。たいせつにお預かりし、現地スタッフに渡してまいります。

事前説明会終了_e0058439_21393610.jpg事前説明会終了_e0058439_21394694.jpg安田さんは、シリアのアブカマルというイラクとの国境近くの町から考えたイラク話を中心に、また、村上さんは、サダム政権崩壊後のイラクで苦しい立場にあるパレスチナ人やイラクの進まない「復興」のお話をしてくださいました。おふたりとも、おつかれさまでした。ありがとうございました。

終了後の打ち上げ交流会には10数名のかたがたが残ってくださり、ちいさなPEACE ON事務所は満杯。飲んで食べてお喋りして、愉しく時が過ぎていきました。飲み明かしてぐったりするのは、年をとった証かも。

いよいよあさって、出発です。まだ準備も終わっていないし、現地スタッフはじめ初めて会う人びとへのお土産も買っていない。さて、イラク人へのプレゼントは、いったいなにが好いかしらん?
# by peaceonkaori | 2005-09-17 23:32 | 国内活動
福岡の牧師、木村公一さんにお会いするため、いのちのことば社におじゃましてきました。

初対面だったのだが、ご本人についてのお話はお聞きしていた。イラク攻撃の際に人間の盾としてバグダードに滞在なさっていたこと、その後も数度イラク入りされていること。
実際にお目にかかると、物腰やわらかくていねいに話されるかただった。

現在のイラク情勢や、戦争時のイラクこぼれ話(牧師はバグダードでも日曜ごとキリスト教会へ通われていたそうだ)、昨秋にイラクで人質として殺害された香田証生くんのことなどに話題がおよぶ。
わたしは証生くんの事件にかんしてまだ、じぶんのなかで昇華しきれていないというか、理論立てて心情説明なり状況分析なりができないというかで、そういうところが職員失格かもしれないのだが、ええ、とにかく悲しみだけを深めてしまっている情けないじぶんがいる。証生くんと会ってみたかった、話をしてみたかったなあと、思う。
そんなだから証生くんの話のくだりでは、胃のあたりがズキズキ、ズキズキしてきやがった。今日は体調がかんばしくなかったからな、くそっ。

いのちのことば社にて木村牧師と_e0058439_1291116.jpgその後、PEACE ON会員のお2人に編集室などを見学させていただいた。お仕事中だのに、ほかの社員さんがたも快く説明などしてくださる。ありがとうございます。
わたしも前に京都で出版社に勤めていたので、机上の紙の山・山・山などが妙に懐かしく思えた。学問の現場に居合わせる喜び、製本所からあがりたてのまっさらな本のインクと糊づけの匂い…数年前にはそんな頃もあったのだなあ。PEACE ONでもいい仕事、しなくっちゃ。

写真は、木村牧師とPEACE ON代表YATCH、そして会員さんお2人。編集長席にて。

帰宅してニュースをチェックすると、爆発によってバグダードで150人を超すかたが亡くなられたとのこと。タルアファル攻撃への復讐とする声明を、イラク聖戦アルカイダ機構が出したという。
アメリカ大統領ブッシュは、自由と民主主義の拡大のため「テロ」最前線のイラクでたたかい抜くといっているけれど、アメリカが侵略してくるまでイラクに「テロ」とかれが呼ぶような事件はなかったはずなんだけどなあと、その言葉遣いを不思議に思う。
# by peaceonkaori | 2005-09-15 01:33 | 国内活動